半年のパリ滞在へ旅立つ直前に、ブリジストン美術館で青木繁の回顧展を見ることができたのだけれども、それは思いもがけず素晴らしいものだった。
青木繁は美術の教科書に必ず登場する「海の幸」を描いた大正時代の画家で、その時代に文学や美術の複数の分野で起こった「浪漫主義」の代表的な作家、と定義されている。 でもまずはこういう便利なジャンル区分は置いておこう。 最近つくづく思うのだけれども、日本の近代からの美術の変遷は自発性が殆どないし、あまりにも急速すぎてそれぞれの区分の画家たちの層が薄すぎるから、西洋の美術史と比較して分析するのはあまりにも馬鹿げている。 だから、まずはタブローの前に立って、その「絵」と向き合うことにしよう。 一緒に行った友人は「どこかシーレを思い出す」とコメントしたのだが、(であまり関心も持たなかったんだけど)スタイル的には全く似てないし、その発言の真意やいかに?? としばし考え込んでいたのだが、それは多分こういうことだ。 青木繁の絵画は「美」を外に向かって強烈に放射している。と簡単に言うけどこれは日本の絵画においてかなり異例だと思うのだ。 「匂わす」でもなく「漂わす」でもなく、ただひたすら出し惜しみすることなく外側に突き抜けているのである。 しかしその輝かしい「熱」はどこか不吉な予感を孕んでいる... ★ そしてパリにわたって、しばらくしたのち、日本の活字が恋しくなって夏目漱石の小説「それから」を読んでいたときに、青木繁に関するトピックスを目にした。彼の代表作の一つ「わだつみいろこの宮」について「あのような緑を見ると心地よい気持ちがするようだ」との主人公のコメントがあるのだけれど、これは漱石自身の言葉に違いない。 青木繁は文人達に愛された。そして画壇からは無視された。それは一体どういうことだろう? まずは明治から大正にかけての「個・individual」という概念が西洋からもたらされたということを考えなければいけない。考えてみれば「愛」ということばもこの時できたのだ。 そして浪漫主義は、封建制度から解放された、全てが自由意志によって決めることのできる「個・人」という理想をうたった。愛する人と一緒にいることができる、自分のしたい仕事ができる、そして自分のいいたいことをいうことができるという今から見ると当然(であることを願うが)の「権利」を信じたのである。 しかし「それから」の主人公、近代的個人である代助は挫折する。漱石も挫折して力尽きる。そして青木繁も... 漱石に関してはまた詳しく調べてからまた改めて取り上げたいと思うのだけれども、彼の小説のキモはつまりこの「挫折」なのである。そしてそれは第二次大戦後江藤淳が「日本という国家は果たして存在するのだろうか」といわしめた根本的な挫折であり、果たして日本という国家の中で「個」という光が輝くことができるのだろうかという問いかけである。 代助は自分の自由意志というものを選ぶことによって破滅し、その次の「こころ」で先生は何か形のさだまらないモヤモヤとした罪悪感に耐え切れず自殺するのである。(ここで大きなキーワードは天皇の崩御に合わせて死ぬ、ということなのだがそれは別の機会に) しかしそれはキリスト教的な「罪」の意識ではなく、自由意志を許さない何者かの権力に挫折する、ということなのではないか- そしてその権力とは、特定の対象ではなく重苦しい「空気」のようにそこら中に漂っているのである。(ところで日本以外に空気を読む、という表現が存在するだろうか?) ★ シーレも青木繁も二十台後半に夭折した。 しかし、二人の残した作品の質と数を比べると、シーレの方が圧倒的に素晴らしい絵画を数多く残しているのである。つまりシーレは「活躍」することが、輝き続けることができた。 しかし青木繁のあの輝くような色彩の絵画の数は、ほとんど片手で数えるほどしかないのである。これについては異論はないだろうと思う。 青木繁は一瞬輝いて、死んだ。 そして昭和に突入し長い戦争が始まって、結局日本の「浪漫」は、輝かしい「個」はどこかへうやむやになってしまった。 そして漱石はそのシナリオを小説の中で予言してみせた。彼らが直面した「挫折」は戦後になって乗り越えられただろうか、それに対しては皆の意見を仰ぎたいところなんだけど... それでもとにかく、青木繁が放った一瞬の光をいつまでも見つめていたいと思う。
by hirakoue
| 2006-03-24 04:35
| ① 青木繁
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