敷居学
2007-01-18T17:36:33+09:00
hirakoue
知の国境をまたぐための徒然紀行文
Excite Blog
番外・朝まで大激論! 「僕らは本当に戦争するのか!?そのⅥ」
http://hirakoue.exblog.jp/3888111/
2006-11-24T23:27:00+09:00
2007-01-18T17:36:33+09:00
2006-11-24T23:27:02+09:00
hirakoue
未分類
個人的な逆上から始まったトピックスにたくさんコメントがあって、本当に嬉しい限りです。これで何千文字もキーボードうった甲斐があるってもんです。
Cさん:
レポンス待ってます。試験合格祈ってますぞ。
J:
Wのコメントを読んでどんなことを思う?
多分まだ(といってもオレもだけど)Jは色んな情報とかアイデアとか感情がごっちゃになっている段階なんだと思う。ちょっとずつ色んなことを知って整理していくべきだと思うよ。オレとゆうじのやりとりで大体わかったと思うけど、もうただ漠然と、賛成か反対とかいうレベルでは済まない問題だから、何か知りたいことがあったら、知り合いでも大学でも使って深めていくことを期待してます。
D:
その通り奪われてるんだよね。たださ、色々考えなきゃいけないことがあるけど、仕事で疲れきってそんな余裕ないっていうのもかなり説得力があるわけでさ笑
生活レベルから政治を考えようって、実は仕事だけで疲れきらない環境を作ろうというっていうコンセプトがマルクス登場以来あると思うんだけど、最近はともするとそういう考えって、ロハス食作るための手間が更に加算されるだけのケチな思考にしかならなかったりする。
日常レベルから政治を考えるのが、多分もっともラディカルになるはずなんだけど、最近は妙にほんわかしちゃってるよね。ロハス食に、フランフランのエプロンに、お団子頭、とかさ
こういう子が「ラブアンドピース!」って萌えはすれども、若干イラッとするかもしれない。。(反論がある女子かかってこい!!)
話がそれた。
自殺者は増えてるなー。景気よくなってる?いやあ実感ないな あ。核?いかんなー、ま、どうでもいいけど「うち」にはおとさんでくれよ。
こんな意見が世論な気がしてならない。>
その通りだよね。こりゃ名言だ。
飲酒運転に関してはさ、もちろん酔っ払った車にひかれる人は少ないほうがいいに決まってるけど、酔っ払い運転している人に対するイメージづくりがヒドいよね。もはや国賊扱いじゃん。
多分、Dの懸念は、朝のニュース番組でのみのもんたの飲酒運転ニュースに対する逆上を見るとわかるよね。何でそんなに怒ってんのみのさん?
まあロジックとしては飲酒運転者を村八分にすることで根絶しましょうって発想だけど、それが非戦論者にも適用される可能性は十分ある、と。
MTさん
えーと、ほんとに町さんの仰るとおりで、別にディベートで勝ちたいがために相手を批判するのはおかしい。
なので、当初のオレの態度はほんとにオトナじゃなかったです。という点ではWがオトナだったわけで危機は回避されたと笑 ついては昨日泥酔しながらいろいろ話したので大丈夫です。
ただですね。今回のやりあいについてはオレは「説得」だと思ってるんです。だれに対してかというと、ゆうじはもちろんオレの意見を受け入れない人全員です。
でですね、対して相手もオレと同じコンセプトで向かってきてることを前提にして今回の一連のやりとりをしたんですね。
オレは絶対相手に自分の意見を納得させたい。そして相手もオレを納得させたい。そこで色々意見の交換をしなければいけない。それで結果的には多分、ある程度お互い歩み寄ることになるんですけど、ただ最初は100%相手を説得する!っていう気合がないとディベートって成り立たないと思うんですよ。
で、まあそれと個人的な友情は「また別」にできたから本当によかったなと思います。そういうことを理解してくれるぐらい友達が大人だったということに、です。
MTさんのケースのように、往々にそれで人の仲もダメになったりしますから。それはやっぱりとても悲しいことでしよう。
とにかく自分もできるだけクールに議論ができるよう努力しなければなりますまい。
本当にこのトピックスをきっかけにして、たくさんの人に自分と日本、とその向こうの国についての関わりあいを意識してもらいたい。と思ってます。
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hirakoue 『まだ討論は続くか』
まだこのトピックスを終わらせたくないので、mizuhoさんの書き込みに対する返信を新規の日記にすることにします。
まず最初に,このトピックスへのリンクですが歓迎です。
できれば首相官邸やホワイトハウスにも読んでほしいものだ。
まずmさんの書き込みの最大の論点は、「私」と「公」というか、個人と国家の関係にあると思います。
で、それを解説してくれて、とても同意できる部分が多いのですが、ほんとに実感のこもった書き込みをしていただき感謝しています。
でですね、それってオレが最近一番人に伝えたいと思っているキーワードでもあるんですね。
この複雑な関係をもう少し立ち入って説明していけば、オレの日本人離れした笑個人主義の根拠がわかってくるかと思います。ということで、mさんの書き込みの補足。
『今の私が生きている実感で「個人主義」と「公」と「個人」について考えると、
公は個人を守るためにあるんだよね。
個人はそれぞれの欲望を持っているのだけど、人は独りで生きて行くよりはみんなで生きて行った方が楽しいから集まりたがる。そこで、それぞれの欲望でぶつかったり不利益を被ったりする。
でも、人はみんなで生きていきたいから、みんながなるべく幸せに生きて行けるためにルールが介入した場所が公だと思う。
だから、公が先にあるのではなく個人が先にある。
公は個人の欲望を抑圧するのではなく、なるべく多くの個人が幸せになるための形を見つけるために、 その都度、変更もされる。 』
というのがまず基本認識。
その上で、「国のために戦争へ行く!」っていう発言は、本質的にこの基本認識が逆さまになっているわけです。
国は個人の利益を守る⇒その国が危機にさらされている⇒国のために戦争に行く
という論理展開に基づいているのかもしれませんが、ここでかなり危険な間違いを犯す可能性があるんですね。
まず、個人=国という認識が出来上がってしまうこと。
これは、英語でいえば、I=WE になる危険性なんですね。確かに1億2000万人の「私」が集まると、日本人という「WE」になるんですけど、その逆の思考はできない。
端的に言えば、I×120000000=WE の逆の、 WE÷120000000=I はできないということです。
ということは、最終的にはI=WEは成り立たない。
なんでかというと、1億二千万人のはそれぞれ違う人間だからなんですよ。もしI=WEが成り立った瞬間、個人の個性は消えてしまうわけです。それの一番わかりやすい例が軍隊です。(だからオレは軍隊が嫌い)
ロジックとしては、日本人の顔全部をインプットして、それを平均化したモンタージュ写真を合成しても、その結果出てきた顔なんて実在してないんですね。まずこれが国家と個人が決定的に違う理由。
国のために戦争へ行く、つまり軍隊へ入る・の時点ですでに避けがたく個人という存在が消える。まずオレはこれが嫌い笑
国を一番きちんと統治できる形って、つまりは国民全員おんなじになればいいんですよ。で、同じになるようにプレッシャーをかけて、同じ服で同じメイクで、おなじ表情で、同じ考え。
まあそれが完璧に成功できればいいんですけど、自分みたいにどうしてもそれができない落ちこぼれがいる。残念ながら。
そしたら、その結果何が起きるかというと、その落ちこぼれを抹殺すると。ユダヤ人とか、アカとか、ニートとか飲酒運転者とか。
でですね、そもそもこれが戦争の起こるプロセスなんですね。暴力に対する暴力を展開するロジックの中にすでに次の暴力が生成されるという恐ろしいロジックがあるわけです。
だから、もし次の全面的な戦争がもう歴史の終わりならば、いくら理想論だと言われても、暴力を絶対に正当化しない思考が必要なんですね。だって、理想論やめて現実的になったら地球滅亡ですよ??
家族が危ない!っていうのは確かに説得力のある煽りですけど、それは飢饉のときに、この種米を食べたら、来年は米作れないぞ!っていう恐怖なワケで、オレのいいたいのはじゃあさつまいもとか食ってみっぺか?という論理なワケです。
(でも来年はお米が食べたい!)
話がそれそうだ。で、国家についてのかなりラディカルな論を引用しましょう。発言者は「ものくう人々」の辺見庸さん。
まず辺見さんは、「邪宗門」の小説家高橋和己さん(今の日本文学好きの若い人はこの作家を読むのだろうか?)の「国家を国家たらしめ秩序づけているのは、軍隊と監獄」である、という認識を考察する。もし監獄と軍隊がなければ、国家に反逆しても何にも怖くない。だから、反国家というのは軍隊と監獄に対しての「対抗暴力」だという理屈になって、高橋さんは赤軍派に肩入れしたりするんだけど、国家暴力に対しては反抗暴力だというのも、このトピックスのやりとりを見ていくと、それも結局は戦争/暴力の続いていくシステムの中に組み込まれることは自明。ということは、法と軍備についてオルタナな意見を持たなければいけない。
前置きが長くなったけど、ここからが辺見さんの発言の引用:
『(エンゲルスの国家についての考察について)最善でも、国家は一つの災い...私はこれ以上的確な国家論を知らない。思えば、国家はわれわれにろくなことをしたためしがないのだ。民主的な共和制だろうが、そのお慈悲は、戦争や他民族の抑圧など巨大な厄災に比べれば、ほとんどなきに等しいものではないか。』
どうですか。もう無条件の、国家というシステムのこきおろし。確かに人間は社会的な生物だから、(他の生物と同様にね!)国家をもたざるを得ない。ところが持ったら持ったで最悪笑
国家にそもそもの希望を持つなということなんでしょうね。
国家暴力の究極の形って、国内に対しては死刑で、国外に対しては戦争だよね。他の国に裁かれるまでは、どっちも責任者は怒られないからさ。
で、それを踏まえると、やっぱり国が危ない!とかは国家に対する肩入れで、本質的に暴力肯定なのね。国が危ない!じゃなくて、国は危ない!というべきでしょうか。
だから、オレとしては、国は基本的にひどいんだけど、よりひどくしないために個人が批判し続けるしかない。
で、日本の非戦主義って、これは辺見さんの受け売りだけど、国家の秩序維持のうちの一つを捨ててるわけです。
個人にとって最悪なのが、国家が個人を迫害してでも、国家であることを維持しようとするシステムなんだけど、日本は国みずからそのシステムを放棄してる。つまり個人に優しい笑
Cさんが戦争とかお金は怪物みたいなもんで、自ら意志をもって暴走してるって言ったけど、それは国家そのものもそうだと思います。
日本の太平洋戦争ってさ、関東陸軍のお偉いさんと天皇以外全員死ぬまで、お国のためにバンザイ突撃するつもりだったわけじゃない。でさ、もしそれがみごと実現して、お偉いさんと皇族の人だけがポツンと日本列島に残って、そしたら多分オレは「お国」ってナニ?って思うに違いないでしょう。
だから、国家の一番マシなかたちは、国家が個人の権利をジャマしない程度のことだすよね。でもそれがめちゃくちゃ難しい。
<「個人主義」っていうのがまさに争いを引き起こしている>
のように見えるのは、やはり国家が争いを巻き起こしているということなんですよ。個人第一主義だろうと、共同体第一主義だろうと、国家は戦争する笑 だから、国民ができる最善策ってのは国家が戦争をするシステムを放棄する。
で、そのときの国民ってのは必ず個人としての国民でないとダメだよねっていうのがオレの論旨でした。
っていうことで話がまとまったように思います。
いや、まとまってないかも。皆様、ご意見ご感想お待ちしております。
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K
国家の、その本質を問い直し話題になった本。
『国家とはなにか』 ・ 萱野 稔人 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4753102424
<国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行為の独占を(実効的に)要求できる人間共同体である>byウェバー
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m
叩き台にしてくれてありがとう。
私が書いた公と個人の内容は、忘れちゃったのだけど、
多分、ホッブスの次の次の人あたりの考え方だよね。
あと、その考え方が民主主義国家の大元じゃなかったっけ。
まさに日本国憲法http://constitution.at.infoseek.co.jp/
の第十三条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
がそれを表現しているのだと思う。
(「公共の福祉」ってところが、これから拡大解釈されていくのかもしれないけど)
一応、日本は今は民主主義国家なのです。
『民主主義の本質は個人主義、多様性、そして有機的な差異化にあります。
民主主義国家は、生命の自然の方式によって、その枝が分岐し、その機能が決定され、その形態が増殖するような、いきいきとした有機体として思い描かれるべきなのです』
とはハーバードリードの「芸術による教育」から。
民主主義国家だろうが、全体主義国家だろうが、国家という形態はひらく君の言うように
おばけのように民衆を食べてしまうのかもしれない。
そのシステムは、私もすっかり忘れてしまったけど、大学の国際政治学とかで学んだような気がするよ。
でも、理想でも、日本国憲法は日本人には高尚過ぎても、
今は、一応、民主主義で、学校でも会社でも政治でもその考え方がベースになってるはずで。
そうじゃなくても、それで進めてよい訳で。
個人の多様性、独自性はその共同体にとって価値になる!と胸を張って言ってよいわけです。
ほんで、ハーバードリードさんは
その個人の多様性を社会に還元するためには芸術が必要であると言ってます。
この時の芸術とは、狭い意味の芸術ではなくて、それぞれの人の表現手段みたいな感じで。
例えば、いくら個人が尊いからといって、それぞれがばらばらで交わらないってのはもったいないし、鬱屈していくだけ。そこで、自分が思っていること考えていることを他者に向けて表現して、お互いが刺激し合い有機的な構成をなしていくのが大事。
だから、他者と関わるために表現が大事で、その時の表現は攻撃的なものでなく人間の感覚に根付いているものを最大限に利用し他者に共感を得られるものであることが好ましいと。
mixiとかはまさにその表現手段だし、みんながここで自分の思っていることを表現することがやっぱり民主主義っぽいのじゃないかな。
私がやってる図工も、基本理念はそれなのだ。
人にどうやって自分のこと伝えるか!それも楽しく上手く工夫して。
あと、例えば、素人の乱のデモとか、反権力しながらユーモアでどこか茶化すところが松本さんの表現手段のうまいところだと思うのだよね。
芸術ってユーモアの中にあると思うんだよね。
と、何か論点がそれてきたのでここらへんで。
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hirakoue
おはようございます。早起きで返信します。
萱野稔人さん、ウェーバー、ホッブス(は直接でないけど)、ハーバード・リード...
良いですねー。この一連のトピックスを読んだら単位か資格かもらえるようにすべきですね笑
Kさん:
この本の意義のあったところは、それまでの左翼というかマルキシストがどうしても国家を、システムというか、何か実体のないものとして批判してきたものを、確かに肉体を持った機関でもあるよと言ったところですね。
そういう点から見てみると、辺見さんの発言が説得力をもったものとして浮上してくる。
原理的にいえば笑、人々は国家に愛想をつかすはずなのに、なぜ進んで国家に加担していくように見えるのか??
それはやはり、国家が人を抑圧し、そして同時に魅了もしていくという身体があるからなんですよね。なんてこともそのうちゴールデン街で。
m:
前にアーティストにとっての自由なんていう書き込みもありましたが、表現と自由とか、芸術と政治っていう問題は自分にとっては非常にやっかいな問題で、あえて議論のなかで無視してきたんですが、そろそろ逃げられなくなってきたな笑
オレもアーティストのはしくれなワケで、政治と芸術の問題というのはよくよく考える問題です。で、まず第一に、政治と芸術はイコールでなくて、さらに弁証法的に結びつくわけでもない。あくまで、「別モノ」なんです。
Kさん、こないだゼロ次元のインタビューの帰り際にもちょっと話したことですが、基本的にアーティストはオカルト的なモノにひかれるんですよ笑 本質的に、芸術は秘教的であると思うんですね。対して、政治は理性的であるべき。
(こういう意味でベンヤミンは詩人と学者二つの側面があると思います)この二つは絶対に和解も交換もしちゃいけない。
そんなことを前提として、ハーバード・リードも詩人さんなワケですが、それぞれの秘教としての表現を、開かれた空間で交換していきましょうというのがmさんの一貫してもっているアイデアだと思います。そういう意味では、理想的な意味で、芸術と政治のバランスが均衡を保っているのでは。
オレも最近は、創作は徹底的に個人的であるべし。思想も個人的であるべし。ただし生活は社会的であるべしという変てこな姿勢になってきたのですが、つまりmさんのいってるようなことってこういうことなんですよね。
で、ユーモアっていうのも、例えばチャップリンの『独裁者』なんかをその最良の例として見たいのですが、常に暴走する権力を相対化する力を持っていますよね。そしてそれは、敵と同じ土俵(つまり政治領域)に上がるのではなく、あくまで芸術として批判するから、あんなに素晴らしいものになるわけです。そういう意味では、国家暴力に対して反抗暴力としての芸術ではなくて、あくまで芸術それ自身として国家暴力と対決するわけです。それってなんかグッとくるじゃないですか
てなワケで、オレも最近「素人の乱」に注目しています。あのセンス、好きですよー。
こないだ、小学校に行く機会があったのですが、低学年と高学年の子の間には結構大きな違いがありますね。
低学年の子達はほんとに無法者というか、やりたい放題なんだけど、高学年の子たちはだいぶ空気を読むようになってくる。
オレとしては中学生ぐらいまではサルでいて欲しいのですが、それにしてもやっぱりダイナミックな社会というのは的確な表現ですよねー。
]]>
番外・朝まで大激論! 「僕らは本当に戦争するのか!?そのⅤ」
http://hirakoue.exblog.jp/3888042/
2006-11-24T23:22:14+09:00
2006-12-09T23:34:38+09:00
2006-11-24T23:22:14+09:00
hirakoue
未分類
そりゃすねるよ。こんな調子じゃあさ。
やっぱりどこかで自分を信じれる部分がないと、きっと一生償えない間違いをどこかでしでかしそうなんだよね。
W
実は最初っからWには悪意もないし好戦感情もないことはわかってたんだけど、ただその思いやりとか、正義感みたいのもポリティカルコレクトに利用されることがあるってのを気づいて欲しかった。
それに、日記に書いたように、他の国のメディアを見ると、北朝鮮がドンパチっていう可能性は薄いように思えるんだよね。
そういう意味ではオレにアドバンテージがあったかもしれない笑
かなり感情的に書いてて気づいたんだけど、もうWに文句いってるんじゃなくて、実はオレが個人として生きようとするのを何とかしてジャマしようとする空気みたいなのが蔓延しているのが怖いんだっていうのがわかってきた。
<個人が自由な権限を持って生きていける。
アウシュビッツのように個人の権利も無く殺される社会は俺も絶対に反対だよ。
ただ、有事になってその個人をどこまで持ち続ける事が出来るのかってのがすごく難しい問題なんじゃないかな?>
その通りで、近いうちに、友達たちと決定的に違う道を選ばなきゃいけないような機会が来たらどうしようかと考えると、ほんとに泣きそう。
というわけで、気を悪くするようなことを沢山書いたけど許してほしい。
多分オレの性格上、被害者になることへの恐怖より、加害者になることへの恐怖のほうがはるかに大きい。そのへんが、たぶん微妙な意見の食い違いなんだと思う。
まあその他いろいろ近々実際会って話しましょうということで
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W
ん?
俺はhirakoueの1:33のレス読んでからレスしたのに。
俺の記事が上に行ってしまってる。
なぜだ?
不思議~。
怖い~。
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hirakoue
ごめんごめん。書き直ししてすれ違った。
爆笑問題の本に関してはチェックしたよ。オレも太田光さんをほんとに手放しで褒めたい。
彼は、芸能生活のリスク犯してまであれ出したんだろうね。
いい本でした。
時代の空気はいつでも人の無意識のなかまで侵入してくる。
オレも絶えず注意を配っていたいと思うよ。
昨日の夜から今日のお昼にかけてほんとに怖くて、布団のなかでブルブル震えてた。ようやく平気になってきたけど。こんなことじゃあ危機は乗り切れないなー。
今デザイン業始めたりして、調子のいい世界にいるから、どこかで高校のときの担任の「倫理が大事なんだぞ」っていう口癖を忘れちゃうのが怖いんだよね。
実は今日の日記ではあえて取り上げなかったけど、北朝鮮をめぐって、中韓日米の物騒な噂が山ほど飛び交ってるんだよねー。いちいち書いたら軍事オタクみたいになってヤダから書かなかったけど。で、思うのは、4国ともそれぞれ抜け目がないってことです。やっぱり一番人がいいのは日本かな。
今週の日曜の朝5時(!)からのJ-WAVE、必聴ですよー。
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Cさん
>「机上の空論」
って言われないようにするには、自分のことを話すしかないのかなあ。
個人の自由って話がでてきたんだけど、
ぼくは、今、ある団体の依頼で、いろんなアーティストに「パフォーマンスのとき自由を感じますか?」と質問しているんです。
これまで、10組くらいインタビューをしたけれど、自由については、ひとりも同じ答えがないんだよね。
自由は感じないって言う人も2人居た。
そのうちのあるシタールの名人は、手が勝手に演奏するような
自分が演奏している感じがしないから、自由を感じない、って人もいた。
でも、考えようによっては、こういうほうが、「自分」は手を下していないということで、自由といえるんじゃないかなと思いました。
でも、ほとんどの人が演奏中に自由を感じていて。
でも、まったく違う内容だったのです。
これには、ある意味驚きました。共通なのは自由という言葉だけ。
あと、共通しているのは自由を感じる人は、みんな気持ちがいいというんです。
開放感を感じるとか。
でも、おもったとおりに演奏できたとき(外とつながって)自由を感じる・・みたいな意見もありました。
おもったとおりでは、なんか、それも不自由だなとおもいつつ。
でも、個人の自由という限りは、半自由を求めているというのが、本当のところだと思います。
ちょっとだけ緩くしばって(みたいな、笑)
どちらかというと縛られたいというのが、本音にあるんではないかと思います。不安定感は普通は好まないでしょうから。
ひとり、まったくひとりきりで生きていない限りは。
まして、MIXIからネットにログインしているわけだし。
ここには、自由はないよね。
外よりはあるかもしれないから。
自由だからMIXIをやるのか、
それとも安心感や合した感じがあるからMIXIにいるのか。
それを、考えることは、ぼくはあります。
とにかく、はまっってしまう構造に、自由はあまりないように思います。
極端でしょうか。
でも、hirakoueくんのいう、
>正義感みたいのもポリティカルコレクトに利用されることが>あるってのを気づいて欲しかった。
というのは、面白い。
正義感を植えるのって、コントロールしやすくするってことでもあるよね。
そもそも、コントローラブルの結果が、正義なのかも。
コントロールするのは、人(権力)??
いや、もしかすると「時代」のほうだと、考えています。
でも、時代は、日経平均のようなOUTPUTに過ぎない可能性もあると思います。
時代のせい・・・といっては、あまりに短絡でしょうか、
まさに、無責任ですね(笑)
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J
長!!ww読むのが遅いから摘み食いの部分があるんだけど…。そこはごめんです。
二人の関係は大丈夫なのかな??
折角なんで俺の戦争に対する意見等も書いておきます。あんまり知識とかないから下手な文章です。
自衛隊を軍化するのは当然のごとく反対。国民投票があれば間違いなく反対。賛成票を投じた人が徴兵されて下さい。
出来るものなら自衛隊自体が無くせるような日本にして欲しい。今の国際関係上は他国に軍備がしかれていたりして、廃止するのは無理だろうと思う。戦争という概念を捨てている日本人は確かに平和ボケをしているのかもしれないが、そもそも危機感を抱いて生きていくのは不必要であって、平和ボケというのは単に悪い言い方であるだけで、平和なんだからいいじゃん!!
人間同士で戦争をしたところで地球の中では大きくても、宇宙規模だとゴミ以下のレベルでしかないよ。
戦争をするというのはもう過去に置いてきて、国同士のボーダーレスにするぐらいの気持ちを持った方がいいと思います。
太田光さんをテレビで観てるだけで、著書はまだ読んだことないんですが、テレビでも政治家以上に鋭い意見を持ってて、興味深いというか必要な人だと思います。
数日前から、美輪明宏さんの本を初めて読んでるんですが、「美輪さんは凄い」という風に言われてるのが段々分かってきました。どう表現していいか分からないので、機会があれば読んでみてくださいとしか言えないですね。
内容の一部にこじつけみたいなのがあるのはちょっと「?」ですが、一歩先にいるって感じです。
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hirakoue
Cさん:
またもやケンカをふっかけているようで恐縮なのですが、Cさんの書き込みの煮え切らなさがどこから来ているか考えてみたんですね。
そしたらやっぱり、それはどこに拠って発言しているのかという問題になるわけです。
さっきのしりとりの話になるんですが、例えばしりとりをしてるオレとCさんは、もしゲームを続けたければ「ん」を語尾に持ってきちゃいけませんよね。そういう意味で、二人にとって、「ん」というのは存在しないも同然なんです。ところが一方では、ゲームが終わる契機として「ん」があることを知っている。でですね、もしプレイヤーという立場にこだわるのであれば、「しりとりは『ん』で終わるわけだからさ」という発言は許されないわけです。(このロジックわかっていただけるでしょうか?)
例えば歴史の話でいうと、オレとCさんは絶対的に歴史のなかの1プレイヤー以外の何者でもないんです。つまり、ゲームの渦中にいるんですね。そのときに、ゲーム終了の条件は意識してても絶対に口にしたり行動してはいけない。その瞬間にゲーム(歴史)は終わりですから。今はそういうフェーズにあるんですね。よって、歴史に必然があるとか運命があるという発言は、観客席というか高みからの発言なんですよね。
ところが、オレたちは『絶対に』1プレイヤーでしかありえない。
自由についても同じことです。事後的に結果付けると、確かに人間には何かしらの束縛が必要のように『見える』。オレは結果的に来世の人から見たら、完璧に自由ではなく何かに束縛されているように見えるかもしれない。けれども、それをわかったうえで、完璧に自由を要求するわけです。
なぜならオレはオレの人生という一回きりのゲームの渦中にいるわけで、よりベターに生きたかったら、100%は無いとわかっていても、1%でも多く実現するために100%を要求せざるを得ないんですね。そこで、事後的に100%はないというオトナな見方を承諾すると、ズルズルと最大値が下がっていくわけです。
例えばですね、悪い見本として30年以上前には、日本はベトナム戦争に自衛隊を送らなかったわけです。ところがイラク戦争の場合は送ってしまったんですね。日本には戦争はしないという根本原則があるんだけど、それが、自衛ならしてもいいって解釈されて、しまいには侵略もしてもいいよ、っていう風にズルズルと原則が崩されてきているわけです。まだ九条が存在してるっていうのに。そういうなし崩しを支えているのが、現実を見て、普遍的法則を見出すオトナな俯瞰的歴史観であると思ったりするわけです。
現実を見ろっていう考えもポリティカルコレクトに利用されます。すでに自衛隊がこれだけ大きくなったんだから現実を見ろ!という意見には、そもそも根本が不当に歪曲されているということを隠蔽する作用があるんです。そういう意味で、広い視野(ゆうじの表現でいえば崇高な思考というヤツ)の思考が必要なんですね。
家族なり自国民が危ないんだから、敵に先手必勝!っていうのが実は、家族なり国民を危機に陥れる敵を作る原因は自分にあるってことを隠蔽するアメリカのやり方というか笑
これは日本の警察機構にも当てはまっていて、こういう事件が起こりました、じゃあ二度とこういう事件が起こらないように新しい法律を作りましょう、というように法と警察がグルになってどんどん個人の生存権がさばまっているわけです。
そのうち、市民が「子供の泣き声がうるさい」ってさわぐから、子供が泣いたら罰金とるようにしようか、なんていうルールができるかもしれません。
さてちょっと話がずれたけど、こんな理由で頑なに原則を固辞するっていう空気の読めない思考をオレは大事にしたいわけです。そういう意味で自分は徹底的に主観的かつ個人的な態度なんですね。原則の改ざんを許す俯瞰的立場は今の時点ではちょっと許せないと。
これだけインターネットや情報検索力が整備されてる時代なので、色んな知識を知ったり状況確認ってそんなに難しいことではないと思うんですよ。で、何が大事かというと、自分がどのような立場で発言するかを明確にするということだと思います。そういう意味で、オレは俯瞰的立場及び、ある共同体に責任を預けた立場での発言を許しません。
Cさんにしても、そこらへんの微妙なラインで、なんとなく思考が難しくなっているのでは、と推測します。
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Dさん
世界が経済ゲームを中心に動いてるのはもはや明白だよね!
んで日本は大半の人が会社員なわけだよね。
で多くの会社員はこう思っている。
「キャリアアップして、結婚して、マイホーム、子供は2人は欲しい、隣人はどうあれ少なくとも自分の家族などは安定した生活を送って生きたい」
まあつまり、波風を嫌い、相対的で、保守的。こういう人たちは結局上の方針に従って、まま生きていくのを無意識ながらも望んでいるんだわな。戦争しないための戦いをする気力もないし、奪われてますよ。家族サービスで精一杯。
大半の人は戦争なんて嫌に決まってる。でももし国がそう決めたんなら、その方針に従う。っていうふうな機械的な流れを作ってきてるわけじゃないですかこの国は。発言権を持つには金とコネですよ昔から。堀江はこの発言権が欲しかったんじゃないの?ビジョンはなかったけど。
自殺者は増えてるなー。景気よくなってる?いやあ実感ないな
あ。核?いかんなー、ま、どうでもいいけど「うち」にはおとさんでくれよ。
こんな意見が世論な気がしてならない。
察しているとは思いますけど、奪われてますよ。
関係ないけど、僕は最近の飲酒運転への過剰なまでの報道と規制の方が気になる。君はどう見てる?
あと道州制に少し夢見ています。
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MTさん
hirakoueとw、とりあえず関係が落ち着いてて良かった。
読んでみてちょっと心配になってしまったよ。
話題から離れてしまうんだけど、
個人的な高校生の頃の出来事を思い出してました。
高3の時、仲良しの3人がいて自分とあと二人だったんだけど、
受験を目前に控えた時期に
二人が「南京大虐殺はあったのかなかったのか
(その規模も含む)」という議論で喧嘩して、
本当にそれきりになってしまったんだ。
それまで本当に仲良かったのが一気にシカト。
町田は知識も論も持たないから
どっちの味方にも敵にもなれなくて情けなかったのだけど
(この立場はhirakoueの敵ね)。
けど、戦争を話題にして自分達が争い(勝ち負けを競う)を
しなくてもいいじゃないと思うのね。
議論で相手を負かして問題は解決するのかというと
そんなことないと思うし、そういう意味でお互いを認め合って意見を言うやりかた・二人の関係に僕は拍手を送りたいと思います。
僕はよくひとから「政治的な問題に無自覚だよね」だとか
「おまえは感覚や感情だけで生きてる」って言われてしまう
のだけど、それこそ話し合う時は相手を認めて、
平易な言葉で話すことだと思う、勝ち負けは意味ないと思うから。
と、酔った勢いで勝手なことを書いてしまいました。
少しだけ意見を言うと
「彼らは自分の家族を殺しにこないと無条件に信頼すること」
に賛成。そうした信頼関係こそが平和だなと思います、
あと、もっと簡単な言葉で
「自分のして欲しくないことを相手にすんな!」
オレ、保育園生の時に教わったことだよ(笑)。
けど世界はそんなシンプルじゃない。
問題に無自覚なひと(町田みたいな)を口撃(!)し、
わからないひとに説明することは必要だと思う。
だって「そんなん知らんで~」と言ったところで
現実は迫ってくるから。
って、自分の問題意識のなさが透けるな。
あとここまで書いてきて結局、自分が高校生の頃、
消し飛んでった仲良し二人の関係をどうにもできなかった
後悔を今だにひきずって気にしてるんだなーと・・・。
ごめん、まじで酔ってるかも。
ひとの関係ってかけがいないもので
ずっと大事にできたらってひたすらに願うよ。
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Mさん
いや~
読みごたえがあって、ためになる対話でしたー
ありがとー!!!
私は育った環境が左よりなのか、ヒラク君の考えはすんなり理解できるのだけど、wato君の考えにはやっぱりびっくりしました。
でも、普通の男の子とたまに話すと「国のためになら戦争にも行く」という人もいたりして、w君のような考え方の人は少数ではないのかなあと思います。
「国のために」っていう発想がどこから涌くのか本当に謎です。
フランスとか、市民で国を動かしているっていう意識が強ければまだしも
何だかよく分からないうちに「国」の決定が出て、戦争行けって言われてもピンとこないなあ。
日本を本当に善くしていこうと思うのなら、
有事じゃない今に、市民が本当に声を出して、どうしたらみんな幸せになれるか、戦争をしなくていい方法はないのか、一部の人が利益を得る社会じゃなくて、多くの市民が幸せになる方法を考えて政治に反影させていかなければいけないのだろうな。
有事じゃない今こそ、市民が発言できて行動できる余地があると思うのだけど、
何故だか、日本人は、そこまで政治にはいりこみません。
私もそうだけど。
それは「個人主義」が根付いてないから?
それもあるけど、日本の中では政治に目を向かないシステムがばっちり出来上がってるんだろうな。
教育も然り。
w君の
●普通に日本に暮らしている日本人とhirakoueの違いは、その個人主義なんだな
●「公」と「個人」っていうのは、やはり相反する
●「個人主義」っていうのがまさに争いを引き起こしている
という言葉が気になりました。
熟考する暇もなく、昔学んだ公と個人の論理展開もすっかり忘れてしまったので、
今の私が生きている実感で「個人主義」と「公」と「個人」について考えると、
公は個人を守るためにあるんだよね。
個人はそれぞれの欲望を持っているのだけど、人は独りで生きて行くよりはみんなで生きて行った方が楽しいから集まりたがる。そこで、それぞれの欲望でぶつかったり不利益を被ったりする。
でも、人はみんなで生きていきたいから、みんながなるべく幸せに生きて行けるためにルールが介入した場所が公だと思う。
だから、公が先にあるのではなく個人が先にある。
公は個人の欲望を抑圧するのではなく、なるべく多くの個人が幸せになるための形を見つけるために、
その都度、変更もされる。
イスラエルのように自分だけのことしか考えてないのはそれは本当の個人主義ではないと思う。
かといって、元から決まってる集団の論理に従う必要もない。
今の公が自分に不具合だったら、みんなと話し合って変えていけばいい。
それが、全く一人の意見であったら、集団は変わらないかもしれないけど、やり方を考えたり仲間を作ったり根回しすれば集団は変わる。
日本的な「公」っていまいち、私が属している集団の中で、言われてるほど感じないのだよなあ。
私が行ってる小学校の学級の子どもの動きは本当に、まさに個人がダイナミックに動いてクラス(公)を作ってる感じよ。その分、まとまらない失敗例も多いけど。
私が小学生の時は担任が絶対的なルールで、まさに全体主義だったけど、今私の目の前にいる小学生はかなり我が儘だけど、少なくとも私の頃よりは全体主義ではないと思う。
ある意味、とっても私たちの時より意見もはっきり言えるし個人主義だなあと思う。
そんでもって、一応、今の学習指導要領で一番謳っているのが
「自ら学び考え行動する子ども」をつくるだからね!(多分、阿部さんはそれを変えたいと思うのだけど)
公(一般的な価値観)は全ての個人が幸せでいられるようにその都度変容していく。
多様な人が多様な幸せを得られるために。
そのためには、まず自分のことを上手に表現することから何だろうな。
hirakoue君とW君のように。
対話から全ては始まるらしい。
と、2人の論旨から外れて言いたいことを言ってすみませぬ。
--------------------------------------------------------------
W
正直J君みたいな、平和だからこのままでいいじゃんっていう思考に一番いらっとします。
本当に何も考えてないんだなぁ、と。
そういう人がまっさきにプロパガンダに操られるんだよ。
なんでそんな無自覚に左の意見を言えるの?
周りや世間に対してほんと無自覚!
そういう人は、個人のためにだけに勝手に生きてください。
俺はそんな生き方は嫌です。
親が殺されても、自分が大事とか言うんだよ。
はいはい。
何に対しても責任を持てない人たちってのは、そういう風に生まれていくんだよ。
「love&peace!」??
言葉だけの平和はやめて欲しい。
ちなみに昨日hirakoueとじっくり二人で話しこんだ上でこの書き込みしています。
hirakoueの言いたい事はよ~く分かった。
そこまで行っての日本軍備化反対は俺も賛成です。
間近に迫った(ように見える)北の恐怖を全く想像出来ないまま今を生きている人は一度ちゃんと悩んだ方がいいと思う。
あなたは何に対して責任を感じてるんですか?
世界?家族?日本?宇宙?
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番外・朝まで大激論! 「僕らは本当に戦争するのか!?そのⅣ」
http://hirakoue.exblog.jp/3887901/
2006-11-24T23:12:11+09:00
2006-12-05T23:56:19+09:00
2006-11-24T23:12:11+09:00
hirakoue
未分類
朝っぱらから数年来の親友wとmixi喧嘩してしまいました。
オレの北朝鮮騒動の考察に対するwのレスに、大人気なくもわたくしhirakoueが逆上したという流れです。
(以下、mixiのリンク・Wがマイミクに議論を呼びかけた)
以上のような流れです。で、いい機会なので、できるだけ沢山の人にお互いの主張を聞いてもらいたいと思います。wの言うとおり、見ざる聞かざるじゃなくて、右も左も知っておいたほうがいいですよ皆様。ではまいりましょう。
-------------------------★--------------------------
まずは、あまりにも感情的な返事ごめんね。
あのレスを読んでまずものすごい怒りがあって、その後絶望的に悲しくなった。ていうか、一連の報道のせいでオレ今パラノイアみたいになってるんだよ。怖くて怖くて。
まあでも、大人気ない返事に対してまだ対話の余地を残してくれたことに感謝する。お世辞抜きで良い友達を持ったよ。
まあそれはそれで、やっぱりWの姿勢というのは虐殺・戦争の加担者であるという非難はくつがえさない。
それに、色々と補足すべきところ、間違えたとこのフォローなどもあるしね。
とりあえず訂正部分。確かにmixiもgoogleも一番乗りじゃない。けれども論旨は同じで、土壌を耕したものといえばいいと思う。例えば、ビデオでVHSとベータが争ったけど結局VHSが勝って、その後はメディアが代わるまで規格が動かないって話。それを軍事でいうと、オスマントルコ勢力が衰退した中世以降、西洋世界のパラダイム(メディア=パラダイム)が始まって、その中で次のターニングポイントとしては産業革命があって、これの一番乗りがイギリスだった、そして元イギリスのアメリカが二度の大戦で大勝ちして世界の軍事バランスの基点になったってことかな。つまり、西洋世界のパラダイムが動かない限り、常に軍事パワーバランスで勝ち続けるのはアングロサクソンなんだってこと。すごくざっくり言ったけどまあこんな感じのことがいいたかった。
そして、疑問の「発言力」の件ですが、誘い水に乗ったねw
まず、日本が外に対しての軍備を持ち始めたころにはすでに西洋世界の軍事バランスが整いつつあった。そこで、日本もそのバランスの一旦を担いたかったけれども、ご存知のとおりそれは叶わなかった。中国をめぐってロシアやイギリスと対立し、「黄色人種ごときが図に乗るな」といわれたわけ。
つまり、日本の軍備拡張は最初から国際的(つまり西洋パラダイム)においては非合法だったんだよ。だから、日本は国際連盟を脱退して、国際社会に敵対する立場としてしか軍備を持てなかった。つまり、当時も今も、日本が堂々と軍備を持つには西洋世界のジャッジをくぐらなきゃいけないのね。(ファシズムに陥った独伊もジャッジから漏れて、その後暴走した。)
そういう意味でさ、アメリカの占領化にあった戦後日本は、軍備を持つ正当性も、世界中を敵に回してでも持つ体力も無かった。つまり、「持ってもいいですか」とも「持つぞコラ!」とも言える権利がなかったと。
でもね、後発でも軍備の正当性と、先進国に対して対等の発言権を主張できる可能性が一つだけある。それは核所持なんだよ。なぜなら、核って最初の一発が致命的でしょ。だから、その一発が怖ければ彼らを認めるしかない。
暴力的に発言権を持てるわけだ。これが後進国が核武装したがる理由なのね。なぜって飛び級できるから。
さて、これを踏まえていくつか考察。
まず第一に、日本が本当に世界の軍事バランスの中の独立した一角を占めたいんだったら当然核所持が選択肢に入る。
ところが、核所持をした瞬間、被爆国というアイデンティティを捨てることになるし、第一日本がアメリカから軍事的に独立することを、アメリカ自身が認めない。
アメリカは、日本をゲームに巻き込みたいから軍隊をつくらせたがる。けど、コントロールがきかなくなるまで調子には乗らせない。以上オレの推測。
そして、根本的にはその暴力的な発言力を、先進国として良しと思うのかどうかだよね。
個人的な意見としては、そんな発言力いらない。
さて、フォローが終わって、何から話そうか...
まず、オレ個人の話をしたいと思う。
オレが政治的なカタストロフとか、戦争を身近に感じる存在がいくつかあるんだけど、まず一番最初に政治運動をしていた親父のこと。これはまあいいとして、高校のとき一番仲良かった(その後カナダいっちゃった)中国人の友達のこと。
そして、クロアチア人のある絵かきさんのこと。
中国人の彼の家族は、中国の文化大革命のブラックリストに乗って日本に渡ってきた人たちで、ときたま家に遊びにいったときに、そのどうしようもない全体主義の話をきいてとても怖かった。
クロアチア人の絵かきさんは、本人は戦争の話はしない。けど、なんでパリに来て絵描きになったのかと聞いたとき、「戦争が始まって...」と答えたとき、ものすごく悲しかった。
オレは人間は個人として自由に生きれる世界が望ましいと思ってる。ところが、政治的イデオロギーとか、民族対立とか、戦争とかが個人を引き裂くんだよ。
オレは幸運にも日本に生まれて特にカタストロフもなく生きてきた、から逆に、そういう存在が自分の生きているホンワカした空間に亀裂を入れたんだろうね。
もちろん、家族や友達、近い人たちを愛するのは当たり前だと思う。でも、それだけじゃなくてオレはその亀裂から、自分から一番遠くにいる人たちに想いを寄せなさいということを学んだのね。そしてオレはそれを倫理と呼んでいるんだけど...
まあそんなとこだけど、まずわかって欲しいのはオレなのに切実な理由があって世の中を考えてるということで、別にディベートで相手を打ち負かしたいとか、自己表現したいとかそういうことじゃあない。
オレにとっての倫理は、家族を殺しにきた北朝鮮の人をやっつけるんじゃなくて、彼らは自分の家族を殺しにこないと無条件に信頼することなのね。そういう意味でも、オレはもう世界に戦争なんて無いって主張するわけだ。これは根拠もないし、実はそうじゃないかもしれないけど、このルールに基づかないと、また不条理な暴力が横行してしまう。これを理想論とも机上の空論と言われようとも一向にかまわないしその気持ちも理解するけどね。これができない人間は基本的には信用しない。
で、倫理には当然責任という問題が付いてまわる。
そろそろWをやっつける頃合なんだけど笑
まず、Wが軍隊を持つべきだという発言をしたときの立場。Wはどこに拠って発言しているのか?
まず最初のレスには、Wが日本という国を代表して、北朝鮮に制裁を加えるべきだ!と発言している姿勢が無意識だろうけど透けてみえる。自衛隊でなくて軍隊を持つということは、もしかしたらどこかで戦争して、まあどうせメディア向けのデモンストレーションみたいに適当な数のテロリストと、悪印象を与えない程度の市民を殺すという、カタストロフまではいかないリスクを負うわけでしょ?だれかノーベル賞とれば帳消しになるぐらいのリスクを。で、これに関して「そんなに戦争したがってるわけじゃない!」という反論は後ほどこっぴどくやっつける。
でさ、もし百歩譲ってWが個人の意志で、戦闘的な軍隊(そうじゃない軍隊なんてちゃんちゃらおかしいけど)を持つべきだと発言したならさ、Wという一人の個人として引き受けられる?そのおびただしい数の殺人の責任をさ。
オレは無理。昔付き合ってた女の子にすらいつも罪悪感抱いているのに、そんな膨大な罪悪感背負いきれない。
だから、オレはhirakoue個人として、軍隊を持って人を殺す(可能性)ことを断固ことわる。
でね、オレは友達がそんなことを許す発言をして平気でいられるほどの英雄だと思いたくないのね。何せオレは普通の小心者だからさ。
でね、だからこう思ってしまうんだよ。Wは、自分の発言の責任は国家が取ると思っている、とね。Wの発言はWの個人的意志ではなくて、核実験をした狂ったテロリスト国家への怒りにもえる良識的日本国民たちの代弁であると。
一見、正義感強そうに見えるじゃない。ところがそうじゃあないんだな。なぜならさ、いざどっかの国の人たちが死んでさ、「その責任は僕じゃないよ、国にあるんだ」っていう人が1億2000万人いたらさ、それはつまり誰にも責任がないのと一緒じゃない。それで、「耐えがたきを耐え、偲び難きを偲び...」なんていうラジオをござの上で聞いて一しきり泣いたら、さあ新しい時代がやってきたぞ!なんて心機一転するような人たちにはオレは加わりたくない。
どうなの?Wは無意識にでも、北朝鮮という尊皇攘夷がいまだに残ってるクレイジーなテロ国家に制裁できる、強者の、裁判官的な視点から発言してない?
それとも、たくさんの人が死ぬことの責任を引き受けられる?
オレは絶対に個人としての言葉しか口にしたくない。
イデオロギーや全体主義や戦争機械のイタコにはなりたくない。
それがオレなりの責任感です。
で、具体的な話にいこう。
じゃあ自衛隊を正規軍にしましょう。徴兵制をしきましょう。さて、ここで考えなきゃいけないのはコスト。
結論からいう。日本の文脈でいうと、軍隊をただ遊ばせるという選択肢は二重の意味でありえない。
まず第一に、その莫大なコストを掛け捨てにする資金はどこから出る?年金?公共事業?麻薬栽培?所得税?たぶん引き続き貧乏人のオレは断固反対。
次に、もしコストを掛け捨てじゃなくて回収するとしたら、どうやって回収する?航空ショー?マラソン大会の賞金?それとも...戦争??
どちらにしてもオレは賛成できない。
でさ、そもそもオレは思うんだけど、戦争があるから軍隊が必要というわけではない。逆で、軍隊があるから戦争を起こす必要があるんだよ。
スイスの話がでたけど、オレはスイスより日本のほうが優位な点があると思う。それは、軍隊を持たずに中立になれる可能性。実はヨーロッパ、ドイツやフランスでは、憲法9条を支援する市民運動が起こってきている。多数ではないけど、経済的にも政治的にも非戦というコンセプトにメリットを見出している人たちがいることを知ってほしいんだなあ。
オレはヨーロッパで、個人の自由という素晴らしさを心底体感した。それがなんだかんだ文句いいながらもヨーロッパを絶対的に信用する理由なんですよ。
まあオレの意見より、こういう本当にすごい人の話を聞こう
http://www.ilyfunet.com/ovni/2006/581/dossier03.php
最後にオレ自身もとても困惑していること:
「机上の空論」。もう色んな人から散々言われているので、またか!と思ってしまうんだけど正直に考えをいうとね、
まず半分は、論理で歯が立たなくなると、オレのパーソナリティに噛み付くというワイドショー的根性でもういいかげんにしろよという感情。
もう半分は、確かにそうかもしれない、という感情。
オレが北朝鮮の報道を聞いて、頭がおかしくなったのは、今こそオレの崇高なる哲学を人々に説いてまわれる!という興奮のせいだったのかも。
でも、じゃあ「机上の空論」だと言われなくなる条件ってなんなんだろ??ベトナムの奥地で地雷踏んで爆死したらそう言ってもらえるのかな?共産党に入って、デモの先頭でシュプレヒコールとばしたら認めてもらえるかな?
それはしんどそうだからじゃあ、さっさと「みんな」が思ってる現実世界に歩み寄って、倫理とか責任とか、そんなの捨てちゃおうかな。
オレが平和のことを考えるのは机上の空論でキチガイじみた妄想だから、おとなしく戦争の加担者になって北朝鮮のキチガイ兵どもがバッタバッタ倒れるのをテレビの中で目撃して拍手喝采しようか?それとも、こんな妄想恥ずかしいから、誰にも言わずに庭に穴掘って「王様の耳は...」って言って葬ろうか。
正直、胸をはって「机上の空論」じゃありません。って言える日がやって来るとは思えない。だってオレが38度線の有刺鉄線に黒焦げになってぶらさがっているのなんて茶番じゃない?
そもそももはや机上ではないんでないかい?
これを読んでる人にオレのメッセージが伝わったなら。
----------------------------------------------------------
Nさん
>だれかノーベル賞とれば帳消しになるぐらいのリスクを。
俺はこの拗ねた考え好きだよw
文学賞とれなかったしね
>これは根拠もないし、実はそうじゃないかもしれないけど、このルールに基づかないと、また不条理な暴力が横行してしまう。
こういう俺ルールって大事だよね
それを守るために理論武装したり、金儲けしたりがその人の魅力になる。
-----------------------------------------------------------
W
非戦、全体主義。。。
う~ん。
自分が発言してみて、初めて色々見えてきた感じだ。
ひとまず、ここは「戦争は無いものだ」っていうhirakoueの論理、っていうより世界への信用に俺ものっとって考えてみるね。
ほんとにここに信用が置けるなら、俺は軍備も必要ないと思えるし、自分が旅したアジアの国々の人たちの事を考える余裕が出てくる。
正直、軍備化すべしって思ったのはここ最近の北朝鮮の動きを見てからの事だし。
日本を飛び越えて北はアメリカと対話をしたい、、、って実際死にさらされてるのは今回日本なんでないの?ってさ。
、、、と、本当に戦争が起こらないって信用出来るならば、なんか心底、北朝鮮にもアメリカにも優しくなれる気持ちがわいてきたよ(笑)
中沢新一の「憲法九条を世界遺産に」じゃないけど、日本は被爆国としてのアイデンティティを持ち続ければ、それこそ俺の言っていた発言権を持てると思う。
でもさ、やっぱ心配よ。
起こるんじゃないの?って。
後さ、根本的に俺とhirakoue、、もっと言ってしまえば普通に日本に暮らしている日本人とヒラクの違いは、その個人主義なんだな、って事。
俺は小さい頃から剣道やってて武士道ってもんが好きだったし、そしてこれからは会社っていう組織に入って集団の論理に従おうとしている。さらに言えばhirakoueのように海外生活が無い。
平時においては全然個人的な意見も言えるし、よっぽどの事がない限り自分の意思っていうものは持ち続けられると思うよ。
これは今発言していて気付いた事だけど、日本の「公」っていう文化はやっぱり有事には全体主義に結びつきやすいんだと思う。
俺の「家族が~~」っていうのは、まさにそういう論拠が元にあるし。
個人が自由な権限を持って生きていける。
アウシュビッツのように個人の権利も無く殺される社会は俺も絶対に反対だよ。
ただ、有事になってその個人をどこまで持ち続ける事が出来るのかってのがすごく難しい問題なんじゃないかな?
深く突き詰めていくと「公」と「個人」っていうのは、やはり相反するするものだと思うから。
国に責任を押し付けるっていうんじゃなく、国のために、、、っていう古い考え方に自分が流されてしまうんじゃないか、って正直思う(ここが武士道とかにつながるんだけどさ)。
でね、これはhirakoueもよくよく理解している事だから別に書く必要もないんだけど、、、そのヒラクの言う「個人主義」っていうのがまさに争いを引き起こしているって事にもなりえるんじゃないの?って事。
西欧個人主義、、、もっと言えば一神教の素晴らしさってのがどうもうさんくさいと感じてしまうのは、やっぱそこなんだよね。
フランスの暴動、イスラエルとパレスチナの問題なんてそこに帰結してしまうように見えてならない。
卓上の空論についてはごめんよ。
悪かった。
ただ、俺の意見はやっぱり戦争は最後の最後まで反対だし、もし有事になってもし自分に家族がいたらぎりぎりまで逃げるけど、いざとなったら戦うって事。
根本にこの気概がないと俺はその人の意見が空白に感じてしまう。
それは多くの日本人も思ってる事だと思うよ。
流されるって事については分かった。
ただ、俺は無意識に流されていく人間じゃないっていう絶対の自信があって、、。
それは、こういう風にいつでも発言する人間だから。
発言しているとhirakoueのように別のベクトルから意見を入れてくれる人が現れて、自分が考える機会になる。
そういえばさっき書いた「憲法九条を世界遺産に」って読んだ?俺は立ち読みで三分の一くらい読んだだけだけど、ほんと面白かったよ。
思想家であんなクリエイティブな人いないよ。
大田光ももともと好きだったので、なおさら。
hirakoueなら一瞬で読めると思うから、もしまだ読んで無かったら読んでみて~。
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番外・朝まで大激論! 「僕らは本当に戦争するのか!?そのⅢ」
http://hirakoue.exblog.jp/3887758/
2006-11-24T23:02:02+09:00
2006-12-01T11:22:21+09:00
2006-11-24T23:02:02+09:00
hirakoue
未分類
M さん
コメントありがとうございます。
ちょっとこの件についてはもう無視できないほど切迫しているので、地道に語り合うべきでしょうね。
で、オレのスタンスを言いますと、
シンプルなものをわざわざこんがらがるようにするのつもりはないけど、こんがらがっているものをシンプルにするつもりも無いということです。
で、何がベターかというと、こんがらがっているものをできるだけ理解しやすく話すということだということだけ言っておきます。
BLOG情報ありがとうこざいます。
具体的な出来事も拾っていかないとですね。
今回の書き込みに関しては、できるだけ個別の出来事に触れないようにしてます。なんか物騒な憶測やら事実確認が飛び交っているんですが、それを解説しだすと軍事オタクみたいになる。それはまた次の機会に。
ではまたコメントよければお願いします。
Cさん
装備という点でいえば、日本の軍事力は金額、火力ともに、世界第二位の水準だと聞いています。
ただ、憲法第9条があって、おいてあるだけになっていますよね。
もう立派な軍事国家・・・。
というか、アメリカの筆頭顧客として育てられてきた日本だったので、すごい買い物をたくさんしたんだと思ってます。
(身内で儲けるなよ、、、米、苦笑)
それで、今回の北朝鮮の騒動を何より喜んだのは、他ならぬアメリカだったと思います。
日本は高価で新製品なミサイル防衛システムを前倒しで購入したことになったから。
そこに来て、核は、これまでの兵器的な軍事力を無意味にしてしまうインパクトがあります。
今回の北朝鮮の核実験と夏のミサイル発射は、日本の高額な軍事力をご破算にしてしまったようにも思えます。
価値ゼロです。いきなり償却されてようなもんです。
日本周辺の軍事バランスは、ついに核を持ってるか持ってないかという点にフェーズが変わってしまいました。
(もう白兵戦がメインな時代ではすっかりなくなってしまった。だから、兵士の上陸は、相当攻撃が済んでからになるでしょう。)
だから、今後、軍事力が争点にある場合は、核のことに絞られるかと思います。防衛するには、役に立つか不明なミサイル防衛網(もういくつ買えばすむのか、、、)また、対等な軍事力を!といえば、核しか選択枝はないと思います。(政治的には・・です)
北朝鮮危機を生煮えにしたことで、アメリカは新しいマーケットを作りだしたわけだと思います。
思えば、ミサイル防衛システムなんて、日本が買うために開発したようなものでしょう。
マーケットにあう製品を作っただけ。
とても純粋な経済原理でしょう。
ただ、それを第一優先に追求した結果の戦争戦略だったのだと思います。
思えば、アメリカは戦争という切り口を使ってどんどんマーケットを作りだしていますよね。
利益追求ということにもっともピュアに生きてきた国なんではないかと思います。
ピュアすぎて赤ん坊みたいだと思います。
分別がないのです。
だから、戦争をちっとも悪いことだとは、本能ではおもっていないだろうと思います。
なにか、戦争がいいわるいを超えた価値観を持った巨大なナニモノが、そこに存在しているような気がします。
ソイツは恐ろしく無邪気だと思います。
政治の動きの裏には、すべて利益追求ということがどうしてもあります。
国という視点から見れば、国益ということです。
例えば、日米関係は、アメリカも日本もお互いにもっとも国益が増す選択をしたんだとおもっています。
現にそうでしょ。すごい経済成長だったし。世界史でも稀有でしょう、よくわからないけど(汗)。
いろんなニュースを見ると、一見一方的に見える内容でも、
どこか非常に絶妙にいろんな角度からの利益がバランスをとった形にフォーメーション替えをした結果のように見えたりもします。(そう見えないにもあります、)
ぼくがここで問題にしたいのは、そういう絶妙な選択をしたのは、どんな存在かということです。
国民でしょうか? 総理大臣や大統領でしょうか?
影のフィクサーでしょう?
総理大臣に至っては、コロコロ人が変わっています(笑)
影のフィクサーだって寿命があります。
誰か個別な者々の意志で?でしょうか。
そこにある意思とは誰の所有物でしょうか。
ところで、ぼくには、お金が生き物のように見えることがあります。
とくに、株式マーケットとか、企業ニュースを見てそう思います。
しかも、それが、国や人を動かしてるようにも思えることがあります。
例えば、お金は巨大なイワシの大群のようなもののうようだと思います。
大群がひとつのモンスターだということです。
そのモンスターの駒のような存在が、国であり個人なのではないかと、おもっています。
お金であの人は狂わされてしまった・・・なんていう風にもいいますし(笑)
そう考えたとき、国や人を超えてバーンと存在するあるネットワーク構造が見えてくるように思います。
利益のバランスはいつもダイナミックに揺らいでいて、そのネットワークに乗っかった人や国、企業がその上でもんどりうってるようにおもえます。
波間の浮きのように・・・・
戦争や平和ですが、そろそろこの二極の対立構造からなんとか離れられないものかと、ちょっと思っています。
戦争や平和以外の第3の道はないものかと。
でも、さっきのようなお金のネットワーク側からの視点で、世界を見ると、戦争状態もまた違ってみえてくると思います。
そこには、人の罪が見えないということです。
現に戦争で人を殺しても裁判で個人が罪になることはなかったかと思います。
だから、まだまだ、戦争だめ!平和に向かえ!っていうのは、結論を急ぎすぎのようにぼくは思います。
戦争をなくそうと、一生懸命やってきたことが、なぜだか逆に
功を奏し・・いや、それどころかまったく届いていないことを、もっと重要視したいとぼくは思います。
戦争と平和は同じ物体の光と影であるとすれば、影の面を否定し、光を強める=平和を望めば望むほど、戦争の影はますます濃くなってしまったようなこともあるのではないかと思います。
善悪、神悪魔、右左、上下・・・そんな価値観にも、同様に横たわるとてもデカイ問題だとおもっています。
例えば人を差別したりってところにも関係がある身近な問題と思います。
アクションというけれど、大きな舞台のことばかりではなく、自分の現場というが、まず、スタートラインだと思います。
そこからやらないと、世界平和なんて話にならないとおもっています。
自分のことをやって自分のことばっかり・・・ということにはなりえないように思います。
だって、繋がってるとか繋がりたいって、みんな言うじゃない、、、、
(この話、重要な問題からは逃げていないスタンスということは、伝わったでしょうか・・・)
宣言こそ出ていないものの、すでに日本は戦争状態にあるというのが、ぼくの認識です。
だって、攻撃を受けているのですよ、すでに。
しかし、日本では日常は一見かわりません。
弾丸ジャッキーがテレビでコントをやってもゆるされます(笑)
もはや、歴史の分析からは答えは見えないのではないでしょうか、、、
だって、前例がない状態でしょう。
自分たちで考えださないと。、、、
自然に出てくるのかもしれませんが、それだからといって立ち止まるつもりもないけれど。
------------------------------------------------------------------
hirakoue
C:
お、書き込みありがとうございます。
ふむふむ、確かに日本は世界第二位の金額に相当する軍備を持つのは本当です。が、それは本質的な意味での軍備、国のアイデンティティのなかに含まれている軍備ではありません。(日本は開発援助といい思いやり予算といい、そういう意味のわからない支出が多い)
日記にも書いたように、基本的に軍備は形而上的なものになったので、おっしゃるとおり抑止力としての軍備、もっといえば長距離核ミサイルの設置というのが冷戦以後の軍備の王道であるかと思います。
(形而下の軍備はコストもかかるし使いでがない。)
で、ここで絶対はまっちゃいけないロジックは、「もうこんだけ軍備を整備したんだから、遊ばせないように使おうよ」という風に自衛隊の正規軍化を正当化しないことです。
無理矢理押し倒しちゃった後に、セックスしちゃったんだから付き合おうよみたいな論理ですね笑
Cさんはかなりの知識と状況判断をお持ちのようだと推測しますが、自分の意見を出そうとすめ書き込みを見るを限り一つ困難にぶちあたっているように見えます。
フーコーが言っていることなのですが、世界の歴史を捉えるときに、常に2つの相反する思考がぶつかりあってきました。
それは、歴史をそれぞれの人が自分の意志で切り開いていくとする考え。もう一つが、様々な歴史のサンプルとセオリーを分析したうえで、全てに法則があり必然とする考え。
前者の代表格はもちろんサルトルで、後者はたくさんいるんですが...有名どこだとシュペングラーの「西洋の没落」なんかがいいサンプルだと思います。
で、前者は当事者的だと言えますし、後者は俯瞰的・事後的だといえます。コーヘイさんの場合、この二つがどうしても矛盾するポイントで思考が難しくなっているんだと感じます。
例えば、西洋パラダイムが始まってから(あるいはローマ時代から)戦争がビジネスだというコンセプトは存在していたと思いますし、日中戦争も、ナチスの台頭もようは、起死回生の大取引だったといえます。
ただ、冷戦以後何が変わったかというと、戦争のテクノロジーが戦争のコンセプトを追い越したということです。
もう戦争の利権を狙っているのは、個別の政治家や、財閥や、軍事オタクや、右翼ではありません。それは例えばアメリカの強固な軍事ロビイストやデス・マーチャントのシオニストたちのようなシステムであって、更に言えば戦争のテクノロジー自身です。本質的な意味でもう人間はテクノロジー(つまり大量破壊兵器)を管理できません。なぜなら管理を失敗したら世界が滅亡するので、失敗から学ぶということができなくなったからです。そういった意味で、テクノロジーはコンセプトやイデーを追い越したといえます。
例えばですね、昔の白兵戦だったら、突撃するのが怖かったら逃げれたじゃないですか。ところが、第一次大戦以降、機関銃を前にして後退という選択肢はないのです。なぜならそこを撃ち殺されますから。だったらどういう選択肢があるかというと、撃たれる前に相手に飛び掛らなければいけません。より速く!もうそれだけです。これと同じ理論で、核抑止力があっという間に膨張しました。
で、話を歴史に戻すんですけど、そういうテクノロジーや貨幣そのものが意志を持って暴れているような現在ですが、もしシュペングラー的な鳥瞰的視点に立つとですね、全てがもうこうなんだから、より事態が悪化するのは止むを得ない!さらにいえば、もう自衛隊がこんだけ膨張しちゃったんだから戦争止む無し!(なんて恐ろしい言葉でしょうか)というロジックになるんですね。つまり、ベートーベンのいう「運命」ってヤツです。
ところがオレはこういう考えに対して徹底的に当事者的な態度で挑む必要があると思ってます。なぜならですね、前に言ったようにもう世界の限界付けが為された後なのだからです。
「運命」を受け入れた瞬間、戦争を肯定する瞬間に、世界はおしまいですからね。そういう意味では、
<戦争ももうリスクヘッジしたものしか起こらない。なぜならリスクの限界値が極限まで上がったから。世界滅亡のリスクというのは、起こったら終わりだから実質上起こらない>
といった意味というのは、しりとりみたいなもんです。「ん」が語尾に来たらゲームが終わりだから、それは無いこととしてしりとりを続けるじゃないですが。ところが無視しているようでいてその限界(つまり語尾の「ん」)は厳然と存在しているわけです。
そういう意味で、理想論だろうか楽観だろうが、「もう戦争は起こら(さ)ない」という考えを維持しない限りは人間の歴史は終わりになるという恐ろしい「運命」が待っています。シュペングラーがそうだったように、俯瞰して歴史を見るとニヒリストかつペシニストになります。オレはそんなの嫌です。
最初に前提として、いくら不可能に見えようとも、あらゆる軍備と戦争が必然だという考えを退けるというコンセプトをもつことが大事だと思うんですよね。残念ながら戦争の必然を裏付ける1000の報道があったとしても。まあそれはヨーロッパ流の<原理>ってヤツです。(というとまた文句がきそうだけど)
だから、まだまだ、戦争だめ!平和に向かえ!っていうのは、結論を急ぎすぎのようにぼくは思います。
戦争をなくそうと、一生懸命やってきたことが、なぜだか逆に
功を奏し・・いや、それどころかまったく届いていないことを、もっと重要視したいとぼくは思います。>
という発言はほんとにその通りで、漠然と、ラブアンドピースと叫んでいる人が有事(って何??)の際に先頭で「戦争止む無し!」って叫ぶのは想像に難くない。
日本の歴史の問題は、戦争について語ることをタブーにしすぎたことです。盲目的に、戦争ダメ!っていわれてても、じやあ何で?って言われたときに、だって人殺しはよくないよ...ぐらいではあまりにもおそまつです。
日本は被害者としての歴史認識が強すぎる。もっとかつて加害者であった、今でも各地の戦争の加害者である(!)ということを受け入れなきゃいけないと思います。そのためにはまず、色んな意見を交わさなきゃいけないでしょうね。
身近なことから始めるのはもちろんです。
でもその基底には広い視野の思考がないかぎり、世論一つでころっと意見が裏返るだろうというのがオレのスタンスです。
大変参考になる書き込みありがとうございます。
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Cさん
運命決定論が、傍観者にはならず、むしろプレイヤー意識を増長するという点と、やはり、二極論からにはまる危機についてとか、書きたいのだが、明日テストなんで、来週また書きます。
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番外・朝まで大激論! 「僕らは本当に戦争するのか!?そのⅡ」
http://hirakoue.exblog.jp/3887746/
2006-11-24T23:01:00+09:00
2006-11-26T03:46:53+09:00
2006-11-24T23:01:10+09:00
hirakoue
■ 番外!
次に、北朝鮮の問題を世界的な動きにリンクさせてみる思考:
フランスの新聞Liberationのこんな社説に対して考察。
『イランの西洋世界との全面対決の姿勢と、北朝鮮の核ミサイル発射技術の開発、今夏以降、この二つは危機をエスカレートさせる出来事である。強大な権力がイランに制裁を加え、次に北朝鮮へ。この二つの共通する出来事は脅威をもたらすか?それは確かではない。
2002年にブッシュ米大統領が、イラン、イラク、そして北朝鮮を指して「悪への鉄槌」を宣言したが、実はイランと北朝鮮の二つの国のあいだには様々な国が介入している。例えば北朝鮮はすでに、イランとパキスタンにミサイル発射技術を売った。パキスタンのムシャラフ大統領の言によれば、すでにパキスタンの長距離ミサイルは北朝鮮モデルになっているとのこと。
イランもまたプルトニウムの生産強化策を打ち出しており、この核のカードを切って欧米と対立する意志は、外部には自国の
正統性の主張と、内部においては国の内政の統治のために使われている。
もし世界がこれに対してしっかりとしたリアクションをとらなければ、イランの強硬派はますます現在の路線を強化するだろう。アメリカは94年、北朝鮮の核所持は断固許さないと宣言しており、同国は今まさにその責任の是非を問われている。
7月、ONU(国連)は核武装に対する最低限の国際的なコンセンサスを提出したが、果たしてそれは実際の行動に結びつくのだろうか?』
★これは全文訳ではないので、全部を詳しく知りたい人はメール下さい。
例えば、ヨーロッパは北朝鮮とイランの問題をある程度共通の出来事として系譜づける思考がありそうですが、日本ではどうてしょうか?パキスタンと北朝鮮の核実験を同次元で語る思考は可能?逆でいうと、欧米世界ではユーゴ紛争とパレスチナ紛争を同次元で語りません。ところが、オレ個人としては、この二つは共通したものがあると考えます。
異なる地域で起きている問題を、「関連」させるかあるいは「切断」するかはかなり厄介な問題です。
ハンチントンによれば、「これから世界は政治・経済ではなく文明によって対立するだろう」と言っています。その予言どおり、欧米世界と中東世界は文化的バックボーンによって対立する図式をとっているかのように見えます。
ところが、北朝鮮-イランというラインは文明が異なっているので、本来ならば結びつかないはずです。
ところが、「欧米に脅威をもたらす核の脅威」という視点で見ると、この二つは同じカテゴリーにくくれます。
オレの判断でいうと、前者はあまりにも括りが狭すぎる、後者はあまりにも広すぎる。
同じ文明が結びつき、違う文明と対決する、というコンセプトをそのまま受け取ると、北朝鮮と中東の協同に説明がつきません。しかし、後者をとれば、北朝鮮もイランも同じ危ないテロ国家だ!鉄槌だ!という安易な発想になり、そちらも危険です。
なのでこういう風に考えます:
まず、西洋世界と中東世界という図式が設定されているとしましょう。(サイード氏はどういうか)
第二に、文化やイデオロギーすら超えて、世界を一方的にコントロールしてきた西洋世界に対立するネットワークが作られつつある。この図式は、99%のメディアによって、「世界の秩序を保つ我々をテロリストが脅かしている」と恣意的に翻訳されている、と考えます。我々とは欧米世界であり、更にいえばアメリカです。そこに中東世界は含まれていません。
さて、このように整理してある程度論理を組み立ててみましょう。
アメリカは、国際社会はテロリスト国家に脅かされていると言っているが、実は国際社会とはアメリカ、よくてせいぜい欧米世界である。
逆に、テロリスト達は、我々はテロリストではなく、アメリカ・欧米世界の理不尽な介入に対して抵抗しているのだと主張しています。
さて、両方の言い分をとると、この二つがねじれの位置にあることがわかります。アメリカ・欧米世界は、中東社会や北朝鮮を国際社会とは見なしてしません。もし国際社会と見なせば、国際社会VSテロリスト国家は、欧米軍対中東軍(強引な括りですが)となり、一見どっちが悪いかわからなくなります。ケンカの場面に遭遇しても、どったが悪いのかわからないのと同じように。
アメリカ・欧米世界はそれを避けたい。実は悪いのは彼らだからなのです。冷静に考えると、北朝鮮やイランといえども、遠いよそまでいって戦争していません。せいぜい核実験を成功させただけで、どこぞの国の3万発も核弾頭をもっているわけではありません。彼らの戦争とは、AとBがケンカしようとしているところでなぜかCがケンカするというやりかたです。アメリカの「北朝鮮の核所持は許さない」という発言は、北朝鮮の「アメリカと対等の立場だと証明するために核所持する」という反論によって、「アメリカと対等な国は許さない」という傲慢な主張であることがバレるわけです。
その根本的な矛盾を隠すために、アメリカ(で統一!)は戦争を、国対国(対等な関係)から、世界対テロ(不平等な関係)にすりかえようとします。
さて、そう考えると、北朝鮮もイランも、世界からはじきだされてしまったことに対する異議申し立てとしての核所持という点では共通しています。(『外部には自国の正統性の主張』という引用を思い出していただきたい)そして彼らをはじきだした張本人は誰でしょうか?
なんてことを考えながら、はたして日本とはなんなのかと考え込んでしまう。アメリカの属国扱いとしての国際社会のメンバー??あんまりまとまってないけど、もっと広い視野をもたなければなぁ
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hirakoue
なんて言ってたら、早速こんなトピックス:
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=101325&media_id=4
もしかして皆様、オレは心配しすぎだなんて思ってませんか?ところが、オレの予想よりはやく事態が悪化する可能性があります。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/economic_sanctions_on_north_korea/?1160661857
例えばもし日本が北朝鮮に軍隊を送って、そして武力行使をしたとしても、ボクらの「終わらない日常」が続くなんて思ってませんか?百歩譲ってそれが続くとしても、それは無関心と欺瞞の上に築かれた幻にしか過ぎないわけです。
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Sさん
hirakoueの警鐘はばっちり的を射ていると思う。
ただなにをすればいいのかがわからないから困っているんだよね俺は。
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hirakoue
一連の出来事の問題点に意識的な人は、それだけで絶対に正しい。そこで重要な行動を起こす人は、正しいというか英雄的。
で、正しくない人は、本質的に保守的な人全員。
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Aさん
今回のはかなり分かりやすかった。
もっと色んな日々を意識しないといけないね。
若者が出来ることは一杯あるはずだから。
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Wさん
日本は早く軍国化すべきだよ。
これに対して、俺はもう反論出来ないと思う。
例えばさ、北と米が戦争になって、日本がイラクの時みたいに後ろでちょろちょろしてたら、国際社会の信用得られないよね。アメリカだって戦争起こしたら間違いなくアメリカ国内では厭戦気分が大きくなるんだよ。タリバンの時もイラクの時もそうだったでしょ。
その時に日本が戦ってなかったら、日米同盟どころじゃないよ。
ただ俺が言いたいのは、こういう事でどんどん右よりに国内が向かうのを良しとするんじゃなく、軍備化した上で国際社会での発言権を持つべきだと思うのよ。
右より政治家は今が軍備化出来る最大のチャンスだと思ってるだろうね。
本当は北が核実験する前に自体を止めるべきだった。
でもそれが出来なかったのは、米・韓・中の中にいて日本の発言権が薄かったからでしょ。
前、別のブログで北について書いた時、北との戦争なんて全く論外みたいな感じだったけど、それはないよね。
可能性は低いけど、ありうると思う。
その低い可能性で戦争が起きた場合、日本はこのままじゃあっという間につぶれるよ。白兵戦じゃ勝てっこないもん。
あと、少し話は飛ぶけど、最近北朝鮮って国は尊皇攘夷の成功した日本のような国なんじゃないかって思ってる。
幕末時代、尊皇攘夷思想の元時代は動いたけど、明治に入ると国を開き鹿鳴館で人は踊り他国の文化をどんどん入れていった。
でも二次大戦後の日本には武士時代の気迫のようなものは残されなかったよね。
北は運良く海外から攻められにくい土地だったために、尊王攘夷思想が消えぬまま国を維持出来た。
日本は明治維新前に尊王攘夷思想の雄、長州や薩摩も英艦隊とかと戦ってやぶれてるからね。
でも、北には侵入しにくい港があるだけ。
そう考えると北がどんな国なのか想像がしやすくなります。
高杉晋作が北朝鮮の軍を率いていたらああいう事するかもよ。
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hirakoue
A:
あるはずだよね。オレはそう信じてるけど...
W:
ふむふむ。一見よく考えてるように見えるけども、多分この程度の思考の深度と知識が一番P.C(ポリティカルコレクト)に利用されやすいだろうね。
まず、冷戦以降の「国防」というもの自体を考えるところから始めようか。
Wの意見の場合、まず外交関係の基盤に「戦争」があるという前提に立っている。つまり、ある利益の不均衡なり政治的意見の違いがある外交には戦争が伴うという考えだね。
ところがまずオレはそこから疑う。
理由としては、まずオレが本質的に非戦論者だというポリシーが第一。次に、厳密な意味で国家対国家の戦争はもう無いということ。まあ深く説明する必要はないと思うけど、国家同士の総力戦というが次に起こったら、もう世界が滅亡なんだよね。そういう意味では、核ミサイルというのは、ある種戦争の限界付けをしてしまった。
国家の総力戦というのはね、どっちが勝つかというのが見えない戦争のことなんだよ。もちろん勝つ確率というのはある。だけど、両方とも勝つつもりで戦うわけでしょ。だから、当然相手を壊滅的な状況に追い込むまで戦うことになる。ところが、その最後の(あるいは最初で最後の)一手として核が登場する。そしたらもう手遅れなので、全面戦争は起こらない。
よって、現在の戦争というのはもうデキレースかテロという形でしか起こらない。つまり、最初から勝者と正義が決まっている戦争。金融トレードの基本がリスクヘッジであるのと同じように、戦争ももうリスクヘッジしたものしか起こらない。なぜならリスクの限界値が極限まで上がったから。世界滅亡のリスクというのは、起こったら終わりだから実質上起こらない。
というわけで、国防力というのは今や、実質的な兵力(何万人の兵隊とか、空母何隻とか)じゃなくて、形而上学的にしか存在しない。つまり、金融トレードで重要なのは、実際の札束じゃなくて電光掲示板に出る数字でしょ。それと同じで、テロを鎮圧するとか、国の内紛を収めるとかいう名目か、あるいは地震の救援とか、そういうことでしか実際の兵力は動かない。だって「国防」の名のもとに、兵隊を何万人か徴兵して訓練するってのはバカげてるわけよ。核ミサイルが飛んできたら全てがパァだから。それでも国防国防っていうなら、時代錯誤のおバカさんか、戦争ビジネスをアテにしてる最悪のデス・マーチャントなワケだ。
というわけで、もはや日本のような島国かつ先進国が軍隊を持つという目的は、他国の侵略行為以外に無いわけだ。
ところが同じように、侵略でも厳密な意味での「戦争」はなくて、それはもう不条理な外交を成立させるための脅しでしかないわけね。アメリカはベトナムに懲りて、もう全面戦争をやりたがらないんだよ。それは中東でも同じことで、さらにベトナムと違って、アメリカが本気でイランに全面戦争を仕掛けると、そこに当然核の報復が待っているわけ。だから、アメリカはヒズボラやアルカイダと戦うとは言うけど、イランと戦うとはおおっぴらに言えない。
さて、それを踏まえて、北朝鮮の場合を考える。
北朝鮮は、中東と違って、国家と労働党は分けられない。つまり、金正日と戦うということは、即ち北朝鮮と戦うということになる。ヒズボラの場合、レバノンの一勢力というマイノリティーで片付けることができるから、そこに戦争の必然性が生まれる。ところが、北朝鮮はそれができない。
ということは例えばアメリカの選択肢は二つ。
金正日と事前工作を共謀して、デキレースの全面戦争をする。
第二に、本当に全面戦争をする。この場合、アメリカは北朝鮮に核の報復をする時間を与えないために、強力な核ミサイルを先手で撃たなければいけない。ところが、これをやると、日本が戦争に加われるキャパはないし、第一日本海の潮風が気持ちいい放射能をお届けしてくれる。
というわけで、Wが北とアメリカが戦争したら、日本は...という考えは、端的に言えば、日本もデス・マーチャンタイズに加わりたい!という主張だということになる。つまり、デキレースの戦争のおこぼれを預かりたいという主張。
で、オレはそれに対して反対するわけよ。
第一に、殺人ビジネスに加わりたくないというポリシー。
第二に、そんなことをしたらますますアメリカからの自立が難しくなるということ。
さて、論点を整理しようか。
まず第一に、もはや自衛という考えはナンセンス。
第二に、したがって軍備を持つということはイコール他国の侵略行為しかないということ。
第三に、他国の侵略ができるのはいまやアメリカだけだということ。(他にあるとしたら、イスラエルですか?ところがイスラエルの国費の半分以上はアメリカが出してるんですよ)
さて、これを踏まえると、日本の軍隊創設にはどんな意味があるでしょうか??
メリケン殿さまのお抱え武士にでもなるのかい??
(オレは日本が侍の国だとか言ってる人を見ると、脳みそが溶けた人なんじゃないかと思う。基本的に日本は農民の国だよ)
まず理解すべきなのは、もう正義をかけたいくさというは起こらなくて、資本主義のなかで最も進化したビジネス取引としての戦争しか無いということなんだよね。
ところが、資本主義ってば基本的にはネズミ講だから、最初にビジネスを始めたヤツ、ピラミッドの上のほうにいるヤツが勝つ。そういう意味ではもう勝敗はついてるでしょ。
アメリカが一番最初に核を持ったから、最後のほうに持ったヤツに文句を言う権利がある。
最初に植民地を作ったヨーロッパが、次に植民地を作った日本に文句を言ったわけだ。三国干渉という形でさ。ところが、おまえだってやってるじゃん!という言い訳は、オレより先にやらなかったおまえが悪い!という反論に勝てないわけ。
結局植民地を作った日本は、同じく植民地を作った連合軍に負けた。そして正義は結果的には先発組に授与された。
ITだってそうじゃん。アメリカのITバブルがはじける時、結局先発組のMSNが大勝ちしたし。
そういう意味で、戦後で軍備最後発の日本に残されてる戦争のビジネスチャンスはすげー少ない。
だって、アメリカのおこぼれ以外に、どこかにのこのこ出かけてって、内紛をおせっかいして、国連とアメリカからの批判に耐えられるだけの肝っ玉があると思う?
もう日本が独立して軍事行動を主張できるだけの余地は残ってない。
Wはかなり根本的な論理破綻を披露しちゃったね。
日本は軍備を持ってないから発言できないんじゃなくて、発言権なかったから軍備が持てなかったんですな。
核戦争と同じで、先に持ったヤツが勝ち。タイムマシーンはもうない。よって、軍備拡張は、アメリカ主催のネズミ講の最後尾に加わることなんだよね。もうグーグルが先発しちゃってるから、もう同じサービスを作っても勝ち目がない。
だいたいそんな論理です。
そして、個人的にWにわかってほしいのは、戦争を前提とした社会という考えに代わる社会をオレが考え続けてるってことだね。
もし第三世界の搾取とか、アジアの田舎の子供達が苦しい生活をしていることに、『本当に』心を痛めているなら、オレはWの発言を理解できないし、正直偽善者だとののしらざるを得ない。
あるいはもしWが、日本が軍備を持つことで、西洋世界の搾取から第三世界を守れると考えているなら、それは大東亜圏を構想した関東陸軍と同じだからもっと勉強して出直してといで。もしアメリカと殺人ビジネスがしたいと思ってるんだったらもう口もききたくない。以上。
オレはこういう勇ましそうに見えて実はものすごくコバンザメ志向の強い思考が心底嫌いです。
で、北朝鮮の国家観とか、そもそも国家の話なんかもしたいんだけどそれはまた他の機会。
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Mさん
はじめまして、wくんから飛んで参りました、Mと申します。
お二人の議論を拝見する限り、根本的には平和な世界の構築には歴史を考察し現状をしっかりと見据える、っといった所でしょうか。
世界の国々のパワーバランスを考えるにおいて米国の一挙一動は注視しなければならないことは当然ですが、それに追随する日本の哀れさといったらイラク戦争時の小泉政権を思い出せば「なさけがない」の一言に尽きるのが個人的見解です。
さて論点がずれている私ですが、物事をもっともシンプルに考えるのであれば地球市民である僕たちが誰しも戦時下に入ることを望んでいないということです。それはwくんも一緒。一部の軍事産業にかかわる人間や、その特需を待ち望んでいる人は別としてね。
この状況下で僕たちはどんなポジティブアクションを起こせるのかなー?
友達同士とことん話し合わなきゃ、それこそ六カ国協議に戻ろうとしない国と一緒になっちゃうぞい。
本来物事は非常にシンプルに出来ているはず、そこを羅列した上でどのような手法で政治的解決が出来るのか探ってもらいたいし、議論してもらいたい。僕たちみんなの未来だからね☆
以下稚拙ではありますが書き並べてみます。
■きんしょうにち政権崩壊へ北の一般市民が悲しむことなく解決へ向かう糸口はないものだろうか、政治家は平和的解決方を見出すことはできないのだろうか、それに対して僕たちはどんなアクションをおこす事が出来るのだろうか?
■崩壊後のストーリーとして5兆円の防衛費の一部でも宇宙開発に費やすことは出来ないのだろうか?世界に先立って軍備(自衛隊の)規模縮小、廃止への模索は出来ないものだろうか?
■どうしたら人々はレイシズムや国家間の格差から解放されるのだろうか?
■資本・共産主義に取って代わるポスト資本主義の概論を構築することは出来ないものだろうか?
■平和を望み愛に満ち溢れた人々が自然環境と共生し自分たちの孫やその先のその先までずうっと美しい地球で生活していくことは出来ないものだろうか?
みたいな~(笑)
安全保障を考えるならこの人のブログは面白いよ。
http://blog.goo.ne.jp/nagashima21/
we are stand at turning point in this history.
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w
hirakoueの言いたい事は分かった。あ、ごめん70%くらい分かった。
まぁ、でも日記に書いてある事はほぼ理解した上で書いてます。
>日本は軍備を持ってないから発言できないんじゃなくて、発言権なかったから軍備が持てなかったんですな。
これはどういう事だろう?
明治維新後、発言権があったから日本は軍備化出来たのかな?
北なんて、そうではないし。
インドなんて核を保有して発言権の増した国じゃないの?
まぁ、とにかく論理武装してhirakoueに挑んだら同い年の日本人で勝てる奴なんてまずいないだろうから、そういう事はしない。
先に言っておく。
ただ、hirakoueが憤ってるのは俺が「軍備化して戦争ビジネスに参加しろ」って言っていると思っているからでしょ。
でもちょっと待って。そういう事は言っていない。
だからアメリカのように他国に侵略して、、、っていう事は全く考えていない。
でだ、hirakoueの論理はまず「戦争は起こらない」っていう絶対条件があるよね。
先に書いたように、俺も戦争が起こる可能性は低いって言ってます。
それがもし起こった場合どうするの?って事。
中東での事と北の違いはよく分かった。正直俺の中にない話だったので勉強になったよ(国家と民族の違いね。ふむふむ)。
ただ「低い可能性で」北と戦う事もあるだろうって事。
で、後hirakoueに対して言っておきたいことは、いつも言うけど卓上の理論ではないの?って事。
分析はよく分かる。
ほんとすごいよ。
だけど、もし自分の目の前に事が起こった場合どうするかっていうhirakoue個人の話がいつも見えてこない。
さっきも実はそういう事を書こうと思ってた。
俺がまっさきに戦争の事を考える時ってのは、「もし家族が殺されるような目にあったら、自分はどうするんだろう」って事です。
hirakoueの考えるような高尚な思考の経緯はありません。
でも、結局戦争が実際に起こった時に必要となってくる事は世界中の情勢を詳しく知っている事よりも、そういう実際的な事なんじゃないかって思ってる。
軍備化について俺が理想とするのはスイスでさ、あそこって中立大国って事だけど、ものすごい軍備を持ってて、若者には徴兵制があるんだよね。
歴史上ヨーロッパの土地は紛争の絶えない地で、どうしても調停する国が必要だった。それでスイスのような国が生まれた。
でも中立国って言っても軍備は持ってるわけじゃない?
そういう国が理想なんじゃないか、って思ってる。
事、安全保障についてはね。
あと二つ。
ITにおける後発が勝てないってのは全く間違った意見だと思うよ。
mixiはGREEの後発だし、GoogleはYahooの後発だよ。
もっと言えば巨大なマーケットに対する穴を見つけて利益を上げる企業もたくさんあるわけだし。
もう一つ、これは補足だけど、、
俺はアジアの田舎の子たちが苦しんでるのを考える事以上に自分の家族が大事です。
だから右とか言われるけど。
それでも、もちろん911後のセキュリティーママと言われた層と同じように「さあ、戦争だ」とは思わないよ。
最終的な決断がもしかしたらそういう所に落ちるかもしれないって事で、選択肢や思考方法はたくさん取っておきたい。
hirakoueに取っては「無駄な思考だ」って思うかもしれないけど、
北の兵が日本上陸して白兵戦になったらどうするの?
その時にも、家族の事よりアジアの子供の事を思うのでしょうか?
なんだか、911後のアメリカ的思考みたいだけどさ、それはよく分かってるけど、両方知っておきたいんだよ。
分かった??
と、言う事でこういう際い話は会った時にでも、ちゃんと話そう。
正直、自分の意見がすごい揺れてるのも分かってるし。
でも発言しないとそれこそ何も分からないのが、もっとよく分かってるから。
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番外・朝まで大激論! 「僕らは本当に戦争するのか!?そのⅠ」
http://hirakoue.exblog.jp/3887596/
2006-11-24T22:48:00+09:00
2006-11-26T03:47:16+09:00
2006-11-24T22:48:08+09:00
hirakoue
■ 番外!
中でもこの書き込みはかなりの反響を呼び、直接のコメントだけでなく、知らない人からメールが送られてたりしました(もちろん大半は遠まわしのディスりでしたけどね)
さて、まず簡単に流れを解説。
レバノンのテロ組織ヒズボラに対するイスラエルの攻撃とアフガン・イラクの混乱に続いて、10月の前半には北朝鮮の核実験が起こった。
そこでの日本のメディアのヒステリックな反応を見てちょっと危機感を覚え、海外のニュースサイトをいくつかリサーチしたところ、国内と国外の温度差を感じて、ちょっと理論的に分析せねばならないと思ったわけです。
そこでmixiに自分の推測とフランスの新聞の社説を訳して解説したものを載せたのですが、そこから友人やら知らない人やらと論議が始まりました。
で、今読み返してハッキリとわかるのですが、結論から言えば論争の最初から最後まで、一番大事な論点/主張が平行線を辿ったままになっています。
つまり、オレは『説得に失敗した』ワケです。何千語も言葉を費やしたにも関わらず。
さて、そしてオレは一体どんな言説に負けたのかというと...
それは最後まで読んで決めてくださーい。
ちなみに全ての発言を取捨選択なしに掲載します。
勢いに任せて書いた間違いもあまさず掲載しますので。
ただし登場する名前は変えます。
自分の言葉を載せないでほしい人はご一報どうぞ。
ではスタート!!
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hirakoue 『不安な人も多いでしょう』
北朝鮮の核実験の問題。
この事件をめぐって様々な問題(首相交代、アメリカとの外交、改憲etc...)が錯綜していて混乱している人も多いのではないでしょうか?
まず少なくとも言えることは、これから世論public opinionがかなりのスピードで変わって行くということです。
なんせ昨日は朝8時のワイドショーでキャスターたちが真面目に「日本は核武装すべきか?」と討論してましたからね。お前らにとってパリスヒルトンの遅刻癖と北朝鮮のスキャンダル外交がどう違うんだ!
今のところは反対派が多いとしても、毎日ワイドショーでこねくりまわしているうちに意見がころっとひっくり返ってしまうでしょうね。日ハム移籍直後と現在の新庄選手の評価のように。
本当のタブーというものは、議論の俎上に登りません。断言してもいいですが、これから日本の自衛隊の正規軍化、核武装が電車の中吊広告の大見出しに登場するでしょう。
そんで、ネット右翼が騒いでいるうちにみなさんも、「そっかぁ、やっぱ、戦争なのかなぁ」となってしまうでしょう。
亀梨くんよりも赤西くんのほうが男前だと思うのですが、いつも亀梨くんの方がクローズアップされるから、「やっぱ亀梨くんなのかなぁ...」となってしまうのと同じだとは思いたくないのですが、どうもメデイアのデッチあげる世論に対抗できるだけの個人的な「ワタシの哲学」とやらを持ってる人が多いとは思えません。
オレの意見としては、北朝鮮への制裁はいかなる理由でも支持しません。おそらく近々、日本は北朝鮮への救援物資を打ち切るでしょう。そして飢餓状態の国民の何十万人かが死んでいくでしょう。ですが、その事実に対して日本人は「核実験するようなクレイジーな国民は飢え死して当然だ」という理由で罪悪感を感じることはないでしょう。
だとしたら、オレは日本人でなくて一向にかまいません。
という個人的な思いはさておき、ちょっと客観的にものを見てみましょうか。まず、わかるだけ海外の新聞に目を通してみましたが、(といってもUS,UK,フランスぐらい)まずどの新聞でも共通しているのは、北朝鮮がコンタクトをとりたがっている国は中国とアメリカだということです。日本については、円が暴落する可能性があることぐらいしか書いてません。
北朝鮮の仮想敵国とは第一にアメリカであるわけで、はっきり言えば日本は蚊帳の外です。(関係があるとすれば通貨です。北朝鮮は通貨価値が崩壊しているので、人々は外貨を貯蓄しますが、それは第一にドル、第二に円です。アメリカの銀行封鎖が北朝鮮にダメージを与えたのはこのためです)
これが本当だとすれば、「すぐに北朝鮮と戦争だ!」という考えは変です。AとBがケンカしようとしているのに、なぜかCがAとケンカをはじめてしまう感じがしないですか?
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K さん
対北朝鮮は日本の国内政策だよね。それはもう判りきっている。
まず北朝鮮との戦争はありえない。国家 対 国家の総力戦は失うものが多いから、現代においては戦争はテロとの戦いか、内戦を仕組むしかないって言われているよね。対アフガン、対イラクでさえそう。
同じ理由で原爆が使われることもない、原爆を使用するとどうなるかは北朝鮮が一番判っている。
じゃあ、なんで北朝鮮を内戦に追い込んで崩壊させないのか・・・。これが判らないと、この日本対北朝鮮の捏造された図式が理解できないよね。
因みに内戦を仕込んで国家を混乱に陥れるというのはアメリカが何度もやってきたことだよね。イラクもそうだった。
では何故、北朝鮮に内戦を仕込んで崩壊させないのか・・・。
少なくとも日本においては、そして阿部首相にとっては都合がよいんだよね。現状の北朝鮮がいてくれることは。
9条を改正する口実にできるかもしれないし、対北朝鮮で真摯に振舞っていれば世論の支持率もあがるという。
ついでにいえば、阿部首相には韓国利権があるから北朝鮮への無防備な攻撃はありえない、というのも知っておく必要があるかな。
そだ、土曜はこれに行くつもりです。
http://illcomm.exblog.jp/m2006-10-01/#3943047
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Jさん
成る程~。やっぱり凄いですね
俺も制裁は反対です。貿易をストップしたところで北朝鮮が弱音を出す訳がない。むしろ、怒りを買う可能性があるだけかな~。って
核の恐ろしさを知らないのか知らないけど、街頭インタビューで核を持つべきとか言ってて頭どうかしてる…。って思った。
テレビメディア見てると制裁を後押しする傾向があるように感じるから、慎重に報道して欲しいですね。
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Jさん
あと、おもしろい見解に、アメリカが裏で糸ひいて北朝鮮に核実験させて、軍事産業に~。とか。
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⑫ 高橋源一郎 「ジェイムス・ジョイスを読んだ猫」
http://hirakoue.exblog.jp/3840540/
2006-11-20T02:31:00+09:00
2006-11-20T02:34:57+09:00
2006-11-20T02:31:13+09:00
hirakoue
⑫ 高橋源一郎
12回目にしてようやく小説家がでてきた!
と一瞬期待したブンガク青年の皆さま、残念ながら今回は小説家でなくて、批評家としての高橋源一郎さんでこざいます。
さて、オレ個人としては、「さようならギャングたち」を書いた高橋源一郎さんより、「文学がこんなにわかっていいかしら」の彼のほうが好み。
「ポップな現代文学」もまたいいけれど、オレを刺してくるのはもっと強烈にアウトサイダーな小説。対して、「ポップな現代文学批評」。いいじゃん。もちろん面白い高級/学術的批評もあるけれども、こういう、いわゆるブンガク用語と無縁なリラックスした批評は今読んでも面白いし、当時はもっと新鮮だったに違いない。
この「ジェイムス・ジョイスを読んだ猫」は、読書についてのエッセイ集。
前半は、限られた人生のなかでたくさんの本を読むためにはどうすればいいのか?という方法を提案したアフォリズム(冗談!)。
「私たちに無駄な本を読んでいる時間などない」と言ったのはだれだっけ?
とかく時間が仕事や些事に忙殺される現代人にとっては、いかに良書を数多くこなすかが人生で最も深刻な問題の一つになる。
それを解決するように見えるのが今日の新書ブームだったりするんだけど、オレから言わせるとこれはよくない。(何せ猫だってジョイスを読むんだから!ネコは暇だけど)
それって、フラれてブランクになる時間が怖いから、絶対に自分にアドバンテージがあるように付き合える、そこそこカワイイ子にしかアタックしない、みたいな小賢しさがある!
違うだろ!ダイナマイトバデーなオリエンタル美女を100%落とすように努力するのが王道ってモンです。
そのためには普段から過酷なトレーニングを自分に課さなきゃいけないワケです。
高橋さん曰く、例えばバカンス旅行に際して、「空港で待ち時間に読み」、「機内で読み」、「ホテルで読み」、「プールの水際で読んで」いたら、「オーストラリア人の夫婦がプールの中で浮き輪でプカプカしながら読んで」いるのに対抗心を覚え、「テニスをしながら読む」。あまつさえ
「きわどいライン際へのサーブをかろうじてレシーブしながら読む」。
そうだ!これぐらいやらなきゃ真の読書人にはなれるわけがない!
今や我々の読むべきものは、専門書や純文学にとどまらず、ミステリーからJ文学、児童書から官能小説、ライトノベルに週刊誌、女性ファッション誌にサブカル雑誌、そしてマンガまでそのジャンルは多岐にわたっているタキ~。
そして中盤では真の読書人たる高橋源一郎氏の華麗なる読書遍歴の一旦が披露されるのだけど、結論からいうと、本読んでるよりテレビ見て泣いてる時間が多い。
なんだそりゃ。
そういえば、こういうスタンスの、なんといえばいいかな。
それこそコレットも吉本ばななも『百万回泣いたネコ』も「泣ける!」として等価にしてしまうこの、ブンガク的にいえば<ポストモダン―オタク>なこの態度ってもしかしたら高橋源一郎さんからなのかもしれないな。
そしてこの系譜は大塚英志さんに引き継がれていくのでは、と推測するのだけども、じゃあ高橋源一郎さんのこういう世界観の原風景はどこから来たんでございましょ?という疑問は後半の「60年代のおもちゃ箱」という章を読むとすぐに答えが出る。
ここでちょっと話がそれるけど、60年代ということで、アンディ・ウォーホルの話をしたい。
今でこそデパートの展覧会なんかで毎年のように取り上げられるウォーホルなんですが、60年代、彼が登場した時代のアメリカではそれはそれはセンセーショナルな存在だった。
それは彼の作品ではなくて、彼のたたずまいだったとオレは思う。
だって、アトリエにいったらB級の映画雑誌とかピンナップ雑誌が山積している。それで、リーバイスのジーンズはいて、アイスクリームぺろぺろ舐めて、変人奇人に囲まれて、始終電話で下らないおしゃべりして、等身大のスーパーマンの絵を描いてる。
確かに、ウォーホル的な発想は彼がオリジナルではなく、マルセル・デュシャンだったと思うのだけど、それでもA級だったデュシャンに比べてウォーホルはカンペキ、B級シチャッテル。
でもでも、だからといって、ボクもウォーホルになれるんだよ!なーんて思ったらウォーホルの思うツボ。
「だれでも15分間はスターになれる」けれども、裏を返せば普通のヤツは15分しかスターになれないってことですね。
閑話休題。
とにかくウォーホルの登場で、アートの「高級志向」が終わってしまった。
つまり、「ファイン」と「ポップ」の境界があいまいになったか、なくなったか、ヒエラルキーが逆転してしまった。なんて説明しなくても、東京に生きるアートっ子の諸君!それは肌で知ってるでしょ?
ウォーホルがB級の反乱を起こし、ソンタグが「キャンプ」の概念をブチ上げて、高橋源一郎さんの素地になる世界観がピルトアップされていった。
好意的に表現すれば何でもアリ、意地悪に表現すれば「痛々しい」時代が始まった。
ところが、「ポップ」が輝いたのは60年代だけだった。
ベトナム戦争が起こって、COUNTRY JOEよろしく、「どうして戦ってるのかなんて考えてるヒマはない」時代になって、それがイヤなら長髪でジーンズで、マリファナ吸ってカナダの国境線を超えて亡命だ!インドにいって悟りを開こう!(といいうわけでインドのゴアにヒッピーの「約束の地」が建設された)
そういう捨て鉢な快楽と痛みがごっちゃになった時代に、あらゆる権威をいったんゼロにしたポップやサイケやサマーオブラヴは確かに、一瞬だけ輝いていた、ように見える。
ところが、ウォーホルいわく、
「60年代はみんながみんなに興味を持っていた」のに、
「70年代はみんながみんなを捨て始めた」。
そう。ポップもアンダーグラウンドも硬直化して、あっという間に一つの権威になった。
あらら、it's boring!
紛れもなく高橋源一郎さんの世界には、この「痛み」が深刻な影を落としている。
「ポップ」も権威になってしまったけれども、だからといって、高級理論・ハイ・セオリーに戻っていくこともできない。
で、80年代生まれのコドモがいうのもなんだけど、その「痛み」にオレは共感するんだと。
「カポーティは、ケルアックもピンチョンもバロウズもバースも認めない。で、彼が好きなのは誰かというと、チャンドラーなんだねぇ。」
実はこの「ジェイムス・ジョイスを読んだ猫」と一緒に読んでいたのはウォーホルの「ボクの哲学」で、偶然にも高橋源一郎さんは本の最後で少しだけ「ボクの哲学」に触れている。
手に取ったのも偶然なら、こういうつながりも偶然。これがあるから読書はやめられない。
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⑪ 加藤 典洋 「ナショナリズムとパトリシズム」 その1
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2006-08-29T04:21:00+09:00
2006-08-29T05:24:15+09:00
2006-08-29T04:21:16+09:00
hirakoue
⑪ 加藤典洋
これは経済学者や社会学者が語る政治とは違った観点から語られていて面白いものでもあるし、文学青年が通過する最も身近な「政治」でもあるのだろう。
が、そこにはある不毛さを感じないわけにはいかない。
前回靖国問題のことを考えているうちに、その不毛さとは何かを分析してみることが必要なんじゃないかと思って、現在朝日新聞の文芸批評を手がけている加藤典洋さんを通じて「ナショナリズムは何か」ということを考えてみたい。
☆
さて、古くは小林英雄から始めてもいいし、戦後でいうと江藤淳を始めとして、「文芸」で語る日本という国というカテゴリーがある。もちろん人それぞれで論旨は違うが、論点はいくつかに絞られている。一つはもちろん、日本語という「国語」である。(意外に思う人もいるかもしれないが、日本語イコール国語という考えは先進国では珍しい。例えばスイスでは公用語としてフランス語とドイツ語があり、それに英語も国語として存在し、更にネイティブな言葉も存在している。)
そしてもう一つ、「日本という国はなんなのか?」という問題である。
つまりは、日本というネーションについて考えてみようということだ。
言語の問題は今回あまり立ち入らないことにして、この「ネーション」という厄介な問題をちよっと考えてみよう。
さて、ただいまプチナショナリズムが巷で流行しているらしいが、このナショナリズムを日本語に訳すと「愛国心」となる。ところが実はもう一つ「愛国心」と訳せる英単語がある。
それは「パトリシズム」といって、あえて違訳すれば「愛郷心」のようになるだろう。
ナショナリズムの元になる、ネーションという概念はどういうものかとすると、国家という政治共同体ととりあえずは定義しよう。それに対してパトリーという概念は、よりローカルな風土や文化から発生している。
具体的にいうと、日本という単位はネーションであるが、こないだ帰郷した波戸という小さな集落はパトリーである。パトリーは常にそこに住んでいる生活や文化と密接に結びついているが、ネーションはそこから切れた形でも成り立つ。
オレはこう定義している。パトリーはある特定の地域に人が住んでいる以上自然発生するものではあるが、ネーションはそこから「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)という政治的なプロセスを踏んで初めて登場してくる。つまり、ネーションは後天的なものなのである。パトリーはもちろんそこに住んでいる人のためにあるが、国家はそうとは限らない。パトリーと違って国家は必ずしも国民に奉仕するとは限らないのである。
さて、英語では明らかに区分されている「愛国心」が、日本では言語レベルでごっちゃになっている。そしてややこしいことに、政治レベルでもごっちゃになってもいる。この問題が文芸が語る日本において大きな関心の一つになっている。(ただし言語的にごっちゃになっているから政治的にごっちゃになるんだというブンガク的な理論に同意するかは別である)
それはどういうものかというと、加藤典洋の「日本人の肖像」という本で面白い説明がある。かいつまんで説明してみよう。
☆
日本地図の歴史には興味深い変遷がある。(ちなみにイタリアの作家カルヴィーノも同じような研究をしている)
開国の近い幕末を境界として、その前と後では日本地図を描くプロセスが決定的に違っている。幕末以前ではこう書く:
まず、京都という国を書いて、その横に奈良を書いて、そして次に○○の国、というようにたくさんの国の集まりが結果的に日本列島の形に見えるという体裁で、お団子がごちゃごちゃ集まって日本らしきものに見えるという形なのである。
ところが、近代になると根本的なプロセスの転換がおこる。
まず最初に日本列島の輪郭を書き、それを分割して地図を作るのである。
もちろん測量術の発展もあるだろうが、ここに大きな思考の転換が隠されている、と加藤典洋さんは言う。
まず幕末以前の地図では、ライプニッツの理論のように、たくさんの地域(モナド)の集積として結果的に一つの国があるという考えであるが、それ以後になると、まず日本という一つの国を考えて、それを区切っていくときに地域・各藩が表れるということになる。
これを先程のネーションとパトリーの違いをふまえて言うとこう説明できる。
幕末以前の日本は、たくさんの地域・パトリーの集まりがあって、それが日本列島という一つの地理的空間の中を満たしていたという状況だった。(だからまずはあるパトリーから地図を書き始める)
ところが幕末になると、パトリーの前に、日本という一つのネーションが想定され、(だからまず日本列島の輪郭線を書く)そのネーションにはこれこれのパトリーが「含まれている」という風に考えるようになる。
こう言いかえてみよう。
人の顔を書く場合、目を書いて鼻を書いて...という各パーツを寄せ集めていって最終的に顔に見えるものを書くという場合と、まず輪郭をかいてその中にパーツを書いていくというやりかたの違いである。
もちろん断言はできないが、パーツ寄せ集め型の場合、「顔」という概念抜きで、人の顔を描いている可能性があるのである。つまり、ちっちゃな子が、なんとなく首の上にこんなものが乗っかっているぞというモノを描く、という可能性である。ここに人の「顔」というイデアはまだ存在していない。
対して、輪郭線から描き始める場合、そこには間違いなく「顔」というイデアが想定されている。つまり、目や鼻を描くのには、「顔」を描くという明確な目標がある。その根拠づけとして輪郭という一つの境界線を設けるのである。
それに対してパーツ寄せ集め型には、ただ目や鼻を描いて、それが結果的に顔になるという可能性がある。(文章で書くとなんとももどかしい感じになるがおわかりいただけるだろうか?)
で、何がいいたいかというと、幕末以前には日本には厳密な意味での「ネーション」というものが無かったのである。豊臣家があり、北条氏があり、徳川家があり...という無数のパトリーが陣取合戦をやっていたわけで、「天下を取る」というのは日本列島という陣地を制するという意味合いであって、日本というネーションを取るという意味ではなかった。
そして、その無数のパトリーが集まった日本列島を外から眺めると、ジャパンとかジパングとか呼ばれていたわけで、本人たちに「日本」という概念は無かったのである。
(という根拠として、江戸時代までは日本人は「自分は日本人」である、という感覚を持たなかった。「自分は長州人」である、という感覚は持っていたにしろ...)
☆
さて話を進めよう。
幕末以後になると、新しい形の地図が登場してくる。これが何を意味しているかというと、ここでようやく「日本」という一つの政治的共同体が現れはじめたということである。
何故そうなかったというと、いくつかの観点から語らないといけないのだが、まず第一にそこにアメリカやイギリスという他なる「ネーション」が登場したということが大きい。
幕末にペリーが乗るアメリカの黒船が開国を迫った。
そして次いでイギリスが不平等条約をつきつける。今まで400年日本の外に外部を持たなかった日本の中では、日本列島が世界の全てだった。日本地図=世界地図なのである。しかしここで突如海の向こうの大陸が現れた。そしてその誰だかわからない言葉も通じない外国人がこっちに不利な関係を持つことを脅迫してきたのだ。
もうおわかりであろう。この段階で初めてネーションが意識されだすのである。
さて、外国が日本にズカズカと踏み込んでくる。ここで日本は文句をいいたい。ところが「正義は我にある。よって討伐すべし」という戦国時代の理論を持ち出すとどうなるか。もちろん強大なネーションの前にあえなく植民地になるだけである。
さて、実は幕末(1863年)に薩摩班はイギリスと海で一線交えているのだが、もちろんイギリス艦隊の前に大敗している。ここでオレは一つのギャップを感じる。
というのは、薩摩VSイギリスという図式である。日本VSイギリスではないのである。
言い換えると、パトリーVSネーションである。これはどうみてもアンバランスであるし、そもそも敵いっこない。フロリダやオクラホマでなくユナイテッドステイツというネーション、ロンドンやリバプールでなくキングブリテンというネーションが日本列島、ジャパンと対峙している。
それに対して薩摩という一パトリーが出しゃばったところでどうにもならない。
薩英戦争の後、幕府はもし西欧の餌食になりたくないならば日本というネーションを創って西欧のネーションと対峙する他ないという結論に至ったのである。
ネーションとネーションの間でしか、「外交」という政治手腕は選べないということを思い知ったともいえる。ここでようやく「正義は我にあり。よって討伐すべし」という理論から「正義は我にある、が相手にも正義があり、一戦交えると壊滅する。そこでとりあえずどっちが正しいかはさておき、お互い歩み寄りをしよう」という対-外概念が生まれる。それは、つまり他者との対話である。
これが日本の近代の始まりであると言えよう。
☆
さて、そして紆余曲折があって(その紆余曲折が大変大事なのだけどそれはまた改めて)徳川幕府の権力は解体され、日本国というネーションが急ピッチで作り上げられた。
しかし考えてみるとこれは大変なことだ。今まで近江の国と唐津の国は外国同士・他人同士だったのに突然お前たちは仲間同士だということになったのである。そんなことを突然言われても...ということで終わってしまう。他人同士が仲間同士になる一つの根拠・シンボルが必要不可欠になる。
で、ここで何が起こったというと、長らく死にかけていた天皇制にスポットに当たったのである。万世一系の天皇を頂点として、日本列島に住むあまねく住民たちが「日本国」というネーションの中に組み込まれることになった。
冒頭の方で話したネーションが後天的に現れるシステムとはこのことである。
パトリー・藩という概念の場合、そこに顔も素性も知られる藩主がいて、その土地に住む農民たちがいて、その間に冨の分配システムがあり、かなり具体的な国が成り立っていた。
ところが天皇という人間であって神でもあるシンボルが政治の頂点に組み込まれたシステムとしての日本というのは格段に抽象的なのである。つまり、日本国民は何か抽象的なものに仕える存在として再定義されたといえる。
さて、このように始まった近代がどんな問題を抱えていくのだろうか?それはまた次回。
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⑩ 靖国参拝はなぜとやかく言われるか
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2006-08-19T01:21:00+09:00
2006-08-24T01:03:43+09:00
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hirakoue
⑩ 靖国参拝
福岡空港から唐津まで行き、さらにそこから呼子という回転する干しイカで有名な港町まで行き、さらにそこから名護屋の外れ、玄界灘の入り口までいくとようやっと母方の田舎、波戸にたどり着きます。ちなみに福岡から最速で3時間。遠いよ!!
家族と一緒のときはもっぱらグルメツアーの体裁でしたが、波戸からひとり小旅行して離れていくつか歴史のリサーチをしてきました。
島原の乱の余波と隠れキリシタン、豊臣秀吉の朝鮮出征。いずれこのblogでも触れたいと思います。
そして、佐賀といえば3大焼物。有田焼と伊万里焼、そして唐津焼です。
今回は唐津焼の窯元をたずね、日本工芸の真髄に触れてきました。痺れた!
★
で、お盆は波戸で過ごしたのですが、15日の終戦記念日には小泉首相が靖国参拝を行いました。個人的感情としては、行こうが行くまいがどうでもいいのですが、やはりこの行為の背景から見えてくる問題をケアしないわけにはいかない。多分ほとんどの人がなぜ靖国参拝が問題になっているのかわからないだろうと思うので、かいつまんで説明します。合コンのネタにどうぞ。
まずマスで議論されている、政教分離の問題と、小泉氏はプライベートで行ったのかパブリックな立場で行ったのかという問題は関心がないので触れません。
というのもこれはレトリックの問題でシロといえばシロですし、クロといえばクロだからです。
友達と飲んでいるときに仕事の電話がかかってきた場合はプライベートかパブリックなのか?という論議に似た不毛さが漂ってきます。
オレにとっての要点は2つ。
「A級戦犯とは誰か?」という問題と「国内問題が外交問題か?」。
これはレトリックでどうとでもなる問題とは若干違ってきます。(前にも書いたけど、ディベートを
制すためには揚げ足とりではなく、土俵をゆずらないことです。)
★
まず最初に、A級戦犯とは誰なのか?
戦時中実施された国民皆兵制の際にも、徴兵(兵隊に強制的に行かされることです。念のため補足)を免れるいくつかの条件がありました。
深刻な障害者、致命的な疾患。そして「海軍と陸軍の仕官学校の生徒」です。
で、A級戦犯は一人を除いて皆この学校の生徒なのです。
つまり彼らは徴兵されていません。
太平洋戦争中に国の実権を握った軍部の指令者たちは全員この学校の卒業者なのです。
この区別は非常に大事です。というのも、前線で死んだ兵士の大半は徴兵された一般人で、それを前線に送り込むのは非・徴兵の軍人である彼らです。
戦争の全権を握っていたのは一般人ではなく、自ら戦争することを望んだ士官学校出のエリートであったわけです。
さて、そう考えるとA級戦犯は誰かが見えてきそうです。
戦争を企てて、一般人を徴兵し、前線で死なせたのは彼らだ。もし日本を外から見る外国人の視線だったらこんな風に思うかもしれません。
彼らが私たちの勇気を奮い立たせて、肉の摂取量も兵器のレベルもケタが違うアメリカと結構いいセン行く戦争をさせてくれた。勝てなかったのは残念だけど運が悪かっただけさ!
とある日本人は思うかもしれません。
どっちにしろA級戦犯の軍人と徴兵された普通の軍人は決定的に違うのは確かなようです。
これで「合祀」と「分祀」の違いもわかりそうです。徴兵と非・徴兵の軍人を区別なく祀るかどうかということです。ちなみに今回の靖国参拝は「合祀」だそうです。
なぜってお互い仲良く戦って頑張ったんですから。
★
次に、国内問題なのか外交問題なのかということに関して。
さて、民主主義は多数決で何でも決まるそうなので、小泉氏はプライベートな身分で独立行政法人である靖国神社に行ったということにしましょう。
もしこれを国内だけの問題と捉えるのであれば、中国や韓国に文句を言われても法律上は関係なさそうだから、とやかく言われる筋合いは無さそうです。
ですが、公正中立を期するためにこんな視点をひとつ:
皆様は中国や韓国の法人ルールや、政治家のプライベートな立場に対する法律を知っていますか?オレは不勉強なものでほとんど知りません。多分ほとんどの人もそうでしょう。
世界中の人々は我々日本人と良くて同じ程度、あるいはより低い知能であるという常識的仮定を立てると、中国や韓国の人たちも外国のルールにそこまで明るくないと言えるでしょう。
ということは外国に向かって日本独自の融通が利きまくるスペシャルなルールを教えてあげなければしけません。
もし国内問題で片付けたければ、中国や韓国の人たちに「お前たちにとやかく言われる筋合いはない!」ということをとやかく言わなければいけなそうです。
ところが逆説的に、これも一種の外交とも言えないでしょうか?
さて、あくまでも中立の立場としては、太平洋戦争で仲良く殺しあった中国と韓国の言い分も聞く必要があります。オレなりに解釈するとこうです。
私たちは日本に一方的に侵略されてたくさんの国民を殺されました。そしてあなた方は連合軍に負けました。そして、戦後は「過ちは、繰り返しませんもう二度と」と言っています。
私たちとしては当然あなたがたはあの戦争を反省しているものだと思っているが、A級戦犯をねぎらうということは、暗に「戦争の指導者を肯定している」ということになりませんか?
どうも論理が一貫していないのが気に掛かる。侵略された側としては当然あなたがたに戦争責任を感じて反省してほしい。
こう言ってくる部外者に対して「A級戦犯だって戦争でお国のために頑張ったんだから一緒に弔ってあげるんです。だいたい他人には関係ないんだから口出しするな」と、靖国参拝と戦争責任が関係ないことを説得してやらなければいけません。
我が国自慢の、公私を自在に操れるスペシャルなルールはちょっと高尚なので、もしかして知能指数の低い人たちにはわかってもらえないかもしれません。なので、それをわかってもらえなかったときの議論も考えなきゃいけないでしょう。
しかしどうも根拠がありそうな論説が見当たらない。どうやってでっちあげるべきか。
考えられるのは、「私たちは実はあなたたちを侵略しませんでした」と言ってみるか、「A級戦犯は戦争の責任者」でないと言ってみることです。
第一のケースでは、日本軍が中国人を虐殺したとか韓国から奴隷を連行してきたという悪質なデマを気の遠くなるぐらいたくさんモミ消さないといけません。教科書も作り直さなければいけません。大変です。
第二のケースでいうと、A級戦犯に戦争責任という無実の罪を着せたのはアメリカという主張も可能ですが、HIPHOPとマクドナルドで育った世代にはちょっと荷が重い。あるいは、実は戦争の全責任は天皇だという主張も可能ですが、そうなるとなぜ戦後天皇制を廃止しなかったのかという更なる批判にさらされることになりますます事が大きくなりそうです。
どうも一番良さそうな処置は、「正義ハワレワレニアリ。ヨッテ他人ノ言葉ニ耳貸スコトナカレ」といって耳を塞いで説得と対話を拒否してしまうことです。で、事実この選択を選んでいるのですから、さすがに日本は賢いですね。「居直りだ!」なんていう批判も耳を塞げばいいだけのことですから。
★
さて、これでうるさい外野はOK。次は日本国内のヘソまがり達を何とかしなければいけない。戦争責任を何とかしろ!なんてblogの中でまで言われたら面倒くさくて仕方が無さそうです。(そんなこと言うやつの家なんて焼いちゃえばいいと思うのですが....)
この問題にしてもさっきの外国に対する処置と同じ発想です。
A級戦犯が誰かという真相を隠せばいいだけのことです。靖国神社のそもそもの「英霊を弔う」という成り立ちも隠しましょう。これで誰も靖国参拝をとやかく言う人はいないはず。完璧です。
最後に麻生外務相のNHKの特番での発言に対するとあるヘソまがりからの反撃も一応ケアしてあげましょう。なにせ公正中立が日本のメディアのモットーですから。
(今回の靖国問題に関する外国からの批判に対して)
これはこの国の問題です。国民が納得してくれればそれで結構です。との発言に反論:
「じゃあ戦争も国内でやればよかったんじゃない?」
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☆ 島暮らし、ネット暮らし・友達の誕生日
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2006-08-05T03:09:00+09:00
2006-08-05T03:28:47+09:00
2006-08-05T03:09:00+09:00
hirakoue
☆ ブレイク
高い建物がない!マックがない!コンビニがない!海の底が見える!みんなのんびりしすぎ!
と生粋の東京っこにはビックリの環境でした。(とはいえ新島も東京)
何年かぶりに海でたっぷり泳いで、夜はビーチでレゲエを聞いて、リラックスした島ライフでした。来年もいこうっと。
さて、根っからのネット住民が多数派の遊歩制作部、一週間近くネットに接続しないという経験はなかなか稀なようでした。(オレはそうでもない)
携帯、そして次はインターネット、この新鋭のテクノロジーはどうもヒトの脳みその構造を変えているらしい。
携帯をよく使うとか使わないとか、mixiの足跡を気にするとか気にしないとかはあんまり意味の無い議論で、問題なのは携帯を持てば自分の存在はすぐにいつでもコンタクト可能な存在として定義づけられ、携帯を「持つ」ということがイコール自分のアイデンティーを固定してしまうということになるわけです。というか携帯というテクノロジー自体がヒトをいつでもコンタクトできる存在に変えるために開発されたのですよ奥さん。
例えば着信履歴というのは便利なようでいて一種の暴力なワケです。なぜなら履歴が残るからかけ直すということが義務になるからで、履歴を見ませんというのは義務を怠ったとして相手から裁かれることになるからです。ちなみにmixiの足跡もだいたい同じ原理。mixiで足跡を見ないという空しい自己主張はバトンが回ってこないという村八分の審判を下されることになる。
中学生のときに朝礼で生活指導の先生が「君たちは道具の使い方を考えなさい」なんてことを言っていましたが、携帯やネットのテクノロジーというのは「所有するかしないか」が問題であってどう使うかという選択肢は開発者や広告によって決められるワケです。(この年になってようやく学校の先生たちが訳知り顔でいってたことの大半が「安全圏内」だということに気づくとは)
で、何がいいたいかというと、次のブログはネットについて書くぞという予告がしたいということ。
☆
新潮の六月、7月号での梅田望夫さんと平野啓一郎さんの対談では、梅田氏の「ネットはもはや社会である」という主張と平野氏の「イヤ、社会の近似である」という主張がぶつかりあっていました。
まずいえるのは、もはやネット世界なんて存在しないという主張はできないということ。
何年か前だったら「あれはオタクのヒトたちだけのものでしょ」という安直な考えが凡人には許されましたが、最近はそんなことは考えられない。
好きか嫌いか、使ってるか使ってないかというのは問題じゃなくて、ネットという世界はすでに疑いなく「在る」わけですが、さてそれをもう一つの社会と捉えるかあるいはその近似だと考えるか??
で、詳細はまた詳しく。
ただ一つだけオレの基本的なスタンスをいうと、ネットや携帯というのは別に革新的なテクノロジーではないと考えています。テクノロジーというのは常に人間の世界のかたちや大脳新皮質の構造を変えるわけで、その点でいえば携帯は伝書バトの子孫だし、ネットもオープンソースにアクセスするという意味ではバビロニアの象形文字が刻まれた石碑の末裔のハズです。
ただそういうモノと携帯やネットに線を引くものがあるとするならば、それはポール・ヴィリリオののいう絶対的な「速度」なのでは―
というような感じでいっちょウェブ進化論を解析してみたい。詳しい人是非知恵入れしてください。
☆
さて、ここ一週間何人か相次いで友達の誕生日でした。
中でも印象深かったのは一人旅のさなか東京で二十歳の誕生日を迎えたフランス人の女の子。日本語を勉強中の彼女に谷川俊太郎の詩を贈るのを思いついたときは自分天才!と確信。で、その子にとっても印象的だったようで、ずいぶん感激してくれました。
数年来の親しい友達にプレゼントしても、反応薄いもんなー。
なんにせよ、彼女にとって忘れがたい思い出になれば何より。
で、ときはバカンス真っ最中。アメリカやらフランスやらスペインやら海の向こうからお客さんがやってきています。彼らと一緒に東京を歩くと、また違った視点で気づくことがたくさん。
世界はそれをみている人の数だけある。
イスラエルから見た目もあれば、レバノンから見た目もある―
今回の事件の当事者(つまり西側世界と中東世界)ではない日本はサイードのいうオリエンタリズムの外部からの視点を持てるハズと期待したいのですが、果たして冷静な報道は届くのでしょうか。
で、新島のののちゃん(三歳)↓
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⑨ 矢内原伊作とジャコメッティ 「彫られた哲学者」
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2006-07-22T23:58:00+09:00
2006-07-25T11:45:53+09:00
2006-07-22T23:58:22+09:00
hirakoue
⑨ 矢内原伊作とジャコメッティ
でも、ジュネのことを深く想うようになったきっかけ、そして今でも一番好きなのは「ジャコメッティのアトリエ」なのである。
原典でも40Pほどしかないこの短いエッセイに導かれて正に精神の深遠とでもいうべき奥深い世界に導かれる思いがしたものだ。(いずれ別の機会にジュネのことについて熱く語りたい)
そしてそれに劣らず重要だったのはアルベルト・ジャコメッティというパリで活躍した彫刻家のことを知ったことだった。
ちょっと触れれば折れてしまいそうな細い細い彫刻。しかし脆弱さはみじんも無く、そこにはなにかが「在る」という気配のみを抽出して物質化しようとしたかのような異常な密度が漂っていた。
その不可思議な彫刻とジュネの「ジャコメッティのアトリエ」を眺めながら、彼らのあいだにチラチラと見え隠れする「ヤナイハラ」なる日本人が妙に気になり始めた。
「彼(ジャコメッティ)はこの2ヶ月間の間、あの日本人(ヤナイハラ氏)の顔を描くことに絶望していたんだ」
(ちなみにこれは「アトリエ」の中の一説であのサルトルのセリフである)
一体ヤナイハラ氏とは何者か??
そして彼はジャコメッティに何をもたらしたのか??
★
と探偵小説調に煽ってみたが何のことはない、今(2006年7月現在)葉山の神奈川県立美術館別館に行けばわかる。
ヤナイハラ氏はクリスチャンで哲学者だった矢内原忠雄(東大に記念館がある)の息子で、同じく哲学者だった矢内原伊作氏だ。そして彼は本職そっちのけでジャコメッティの前に座り続けることで歴史に名を刻む「モデル」になる―
あらましはこうだ:
当時パリで研修をしていた矢内原は、美術批評の執筆のために当時パリで注目されていたジャコメッティとコンタクトをとる。そし二人は懇意になり、哲学者の帰国間近、記念に「一枚キミのデッサンをとろうか」と彫刻家が提案する。
そしていざジャコメッティがデッサンを始めると、「これはすごい!」「今までで一番遠くまで行ける気がする」「なんて美しいんだ!」と今までにない手応えを感じる。そして彫刻家の強い要望で、ヤナイハラ氏は帰国を2ヶ月も延期してしまう。(仕事は大丈夫だったのだろうか??)
そしてその間二人は未知の旅路を辿る旅にでることになる。
未知の旅??それはなんのことはない。粗末で狭苦しいパリの場末のアトリエでただ毎日同じことを繰り返しただけだ。
座ること。描くこと。そしてそれに疲れたらカフェに出て、ハムとパンとゆでタマゴ、そしてコーヒーをカップ2杯。ついでに他愛も無いおしゃべり。それだけである。
★
ヤナイハラ氏は第二次大戦後フランスを中心に勃興した「実存主義」の哲学を日本に紹介した。実存とは英語でいうとexiste、「存在する」ということだ―
実存主義とは何か、と言い出すとキリがない。ここはサルトルの論旨に絞っていう。
要約すると、私たちは生きている、存在している。そしてなぜ生きているか、という根拠は神にも倫理にも求めない。根拠なんてないのだ。私たちはただ「存在」している。その前提から人生を生きよう―ということだ。
「実存(existence)は本質(essence)に先立つ」
なぜ人は恋をするのだろう、why does boy meets girl??
ではなく、とにかくオトコノコとオンナノコは出会ってしまうのだ。まずそこから出発しよう。
もし何の根拠もなく、自分の外から自分を支えてくれるものがなければ生きるために最も自由用なのがどのように生きようかを決める「意志」である。そう、自分の意志(volonte)こそが重要だ。60年代に登場する、相対的な立場から論理を組み立てる構造主義から徹底的に叩かれるように、実存主義は徹頭徹尾主観的である。
さて、どっちの立場に立つかは置いておくとして、必然性というものがある。
戦争があった。そして、自分が生きるか死ぬかはすべて「根拠無く」訪れた。ナチスは何百万人の人間を養鶏をベルトコンベアーで屠殺するがごとくシステマティックに消してしまった。ここにどうやって神や倫理を見ればよいのか?
そしてその戦争が終わり、ボロボロになってしまった世界に放り出された。
生きていくためには、もう一度自分が生きれる土壌を作り直さなければいけない。
そのときに、「相対的に見れば」とか、「全てが然るべきようになる」なんて説得力があるだろうか?構造主義は戦後すぐにはあらわれなかった。60年代、社会が豊かになってきたときに登場した。巨大な不条理を残して崩壊した戦争のあと、生きていくためのモチベーション、よりよい社会を考えるために実存主義は必然だった。(なにせレヴィ・ストロースにとってはよりよい世界なんて存在しない。全ての富める国も野蛮な国もあるシステムネットワーク上の一つのコードとして取り扱われたからだ。)
そんな思想を探求していた日本の哲学者の青年の前に、「明日は昨日よりもっと良くなるはずだ」と信じて疑わない彫刻家が現れた。
そして「もっと良くなる」というのは、他と比べてどうかではない。
「昨日の自分」に対してなのだ。これはシンプルなようでいて強靭な意志なのである。
★
今葉山にはジャコメッティの残したヤナイハラ氏のデッサンと彫像が展示されている。
そしてジュネの「アトリエ」に書かれた文章やヤナイハラ氏が写真とともにつづった「アルバム」を辿ることで、哲学者と彫刻家が「存在すること」と「見ること」について命を削った軌跡をわずかながら追うことができる。
もう一度繰り返すようだが、長い間ジャコメッティがなにをやっていたというと、目の前に正面向かって座っているモデルを同じ角度、同じ構図、同じ色彩で何度もデッサンすることである。
よくよく見ないと、同じものをコピーしたんじゃないかと思えるぐらい単調な仕事に見える。
しかしよくよくそれを注意深く比べていくと、上手くいっているのとそうでないものがあるのがわかる。何をもって上手くいっていると判断するのかわからないのだが、とにかく何かを分かつものがある。それは対象が存在していることを保証する「密度」である。
ジャコメッティは写真は実際に見えるものをうつすものではないという。
なぜなら写真には「写真を見ている自分」の意識が映されてはいないからだ。
客観的だからいって「真」なのではない。
「真に見える」ことを表現するということは、つまりその対象を見ている自分の意識と客観的・物理的に見えている対象を同時に描くという事である。
カントの理論に即して言うとこうなる。
私たちが判断できることは自分の認識の範囲内にとどまっている。
その認識できる範囲を超えてしまうと、結局は「存在」しないことと同じとなる。
つまり、私たちの世界は自身の意識のなかに存在している。それを超えるものは結局「語りえない」ものとして封印されてしまう。(中沢新一さんが一神教を例外として疎外してしまうように)
しかしジュネは「語りえないもの」に挑戦し、ジャコメッティは「表せえないもの」に挑戦する。
ルネッサンス以降の写実主義は(基本的に)「客観的に」こう見えるという像を自然科学的な知識で追求していく。その延長線上にあるものは「写真」である。ところがこれはカントやヘーゲルの思想と同じくして、まるで全ての対象が見渡せるような鳥瞰的な自意識の導入をもたらしてしまう。つまり、「全ての人がこう見えるはずだ」ということを判断できる神のごとき「私」がいることになる。
「私にはこう見えている」もののみを表そうとすると、それは表現主義やフォービズムになる。しかし、それも写実主義の矛盾の裏側にしかすぎない。
なぜならそれも全ての像が自分の意識のなかで完結してしまうのだ。対象が私の意識の中に解消されてしまう。自分の思惑とは別に対象はそれ自身のありかたで存在しているというのに。
「私にはこう見えるヤナイハラ」はしかし、あくまでも矢内原伊作という「あらわしえない」個人としてジャコメッティの前に座っている。
はたしてこの二つを矛盾することなく一つのタブロー、一つの彫像に落とし込むことは可能なのか?
結論からいうとそれは出来ない。
ジャコメッティもそれに気づいてはいる。しかしその望みこそが創造を続けるモチベーションとなる。ならば、その不可能に対して「一歩一歩近づいていく」ことしかない―
私に見えるヤナイハラと、私の意志とは別に存在しているヤナイハラを矛盾せずに表すこと。
二人が足掛け5年やり続けたのはただそれだけである。
★
ジャコメッティにとって、「似ている」ことは「そっくり」なことより重要だった。
つまり、写真のようにそっくりに描くよりも、それより細くするとなぜか実物そっくりよりも「似て見える」つまり、これが「彫刻家ジャコメッティが対象を見る意識」の特異性である。これは写真的リアリティ(それは万人がこう見えるという前程)に矛盾する。しかし、ジャコメッティはそこでマティスやルソーのように想像の世界に行くことを拒否する。あくまでも「あるものそのまま」を描こうとする。
そこで何度も何度もやりなおしながら、実物より細く見える像・実物そっくりではない像に写真の像がもたらすような「おもかげ」を宿すことに砕身することになる。ところがこれの決定的要因がわからない。
ジャコメッティはそこで死ぬほどの苦痛を味わうことになるが、なぜかその不可能な行為をやめようとしない。(その理由がハッキリいってオレにはわからないのだけど)
さて、そこでなぜヤナイハラ氏が彼にとって重要なモデルだったのか、ということを考えると、それはまずヤナイハラ氏が「日本人」だったからなのではないのだろうか。(といっても日本人的な平均的な顔ではないけれど)つまり、西洋人を描くときに使えるような「日本人一般」のテンプレートをジャコメッティは持っていなかった。そこで、テンプレート抜きの白紙の状態で、目の前の典型的なあるタイプとは比較できえない「顔」を描かざるをえない。当然、より多くの集中力が必要になる。そう、ヨーロッパ人の、日本人の、**人としての誰かではなく目の前に存在している唯一の存在としての「ヤナイハラ」を描くことになるのだ。
それこそジャコメッティが望んでいたことだったのだろう。
彼はありとあらゆる「相対的」な世界と決別したのだ。
★
前回のブログで少し触れたことだけれども、今や人々はリアリティもアイデンティティーも選ぶことができる。なぜなら全てのものは相対的であり、たまたまオレがAであってBでないのは偶然にしかすぎず、それはいつでも入れ替えることができる。そう、日本語で主語が自由に交換、省略できるように。
アイデンティーや自意識は他人と比較することによって生まれる。例えば絶対的な美人というのはちよっとナンセンスだ。なぜならあんまり美人じゃない人がいるから美人が成り立つ。
つまり、何かがAはAとして成り立つ根拠というものがBや、Cとの比較として生まれるであれば、BやCが成り立つ根拠もまたAとの比較なのだから、結局根拠は無いということになってしまう。
この前提は今や肯定せざるを得ないように見える。かつては神様や倫理が絶対的な根拠を提供してくれた。(インドネシアの影絵師は観客が一人もいない場所で神様のために影絵をやる)
しかし、もし「神が死んだ」とするならば―
これをじゃあAやBやCがどのように関係しあってシステム(構造)を作っているかと考えると構造主義になる。に対して、根拠はない。ならば根拠が無くても自分がすでに存在しているということを疑いえない根拠にしてしまおうというのが実存主義である。
サルトルとも実際に付き合いがあったことからも、その主観的な姿勢からもジャコメッティは実存的なアーティストだと言われてきた。しか、ヤナイハラを描きつづけたジャコメッティはどうもそれだけでは片付けられない尋常ではない執念を感じる。
同時代のアートの流れと比べると、ジュネやジャコメッティの態度は明らかに孤立している。
例えばピカソ。ピカソの偉大さはつまり、他のアーティストの比較していかに「多くのスタイルを発明」したかに尽きる。ピカソは絶え間なく新しいアイデンティティーを着替え続けた。そしてそのバリエーションとセンスがズバ抜けていたために名をなした。そして大多数のアーティストも結局は他と比較してどれだけオリジナリティがあるかの勝負になってくる。つまり、「個性」がモノをいう。
ところがジャコメッティの場合、スタイルや個性を徹底的に消去していく。
彼は創意工夫というものを否定する。ただあるものをしかるべきように現すだけである。
ところが、逆説的なことに、人間は一人一人異なった意識を持っている。
ありとあらゆる意図を消し去ってただ自分の意識を剥き出しにできたときそこに現れるのは、誰とも似ていない、誰とも比べられないただ一つの像―つまりヤナイハラ氏のデッサンと彫像である。それは、ただ一人ジャコメッティが持つ意識の特異性の反映であり、同時にヤナイハラ氏のおもかげである。
ここにあるオリジナリティは、才能ではなく、技術や意匠の優劣から来るものでもない。
それは本来的な、渋谷の街頭ではみんな似て見える女の子たちが、化粧を落として自分の部屋で寝る前に一人になったときに見せる「然るべきところに存在する、ある固有のすがた」なのだ。
ここで現れる世界はまさに「あらわせえぬ」ものであるはずだろう。
主観的と客観的という矛盾の解消、あるいは止揚というのは都合のよい目隠しなのだ。
必要なのはその矛盾に苦しみ続けることだ。
彼は芸術の進歩のために創作したわけでも世に名を成すためでも、誰かを喜ばすために創作したわけではない。
ひたすら自分が「何かを見る」ということと「何かが在る」ということのギャップと格闘しただけである。
ありとあらゆるスタイル、個性、時代性、そういうものをジャコメッティは否定していった。
それは、逆に言えば身の回りにいる知人(一般的なものに還元できない固有の人たち)への絶対的な信頼であり、自分の意識がワケも知らず存在していることの謎への挑戦だった。サルトルが自分が存在しているという謎に挑戦したように。
★
ともすると、何かを創ることは時代性との葛藤や、他の才能と競争して個性を勝ち取るものだと決め付けられてしまう。そういうものももちろんあっていい。
しかし、大事なのは自分が何を見ているのか、ということであって、「明日の自分は昨日の自分よりも良くなるはずだ」という確信なのである。
真面目にいえば笑われてしまうようなこんなことを胸に抱くことを、ジャコメッティがささやかに勇気付けてくれる。そうそう、人間はみな「歩くヒト」なのだー。
そして、その旅路を供にしたヤナイハラ氏のおもかげは今葉山の海辺に飾られている。
本当に出会えて良かった。何ともいえない感慨にふけりながらパリの街、葉山の海岸沿いを歩き続けた。
「私は千年生きたい。せめて五百年でもいい。五百年生きられたら、相当の進歩ができるだろう。」
この言葉は願望というよりはもはや祈りの言葉に近いのだー
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⑧ つげ義春 「無能の人が見る夢」
http://hirakoue.exblog.jp/2859200/
2006-07-21T03:31:00+09:00
2006-07-25T15:58:57+09:00
2006-07-21T03:31:29+09:00
hirakoue
⑧ つげ義春
アテもない旅行者が、一面グレーの霞がかったロンドン郊外のうらびれた街で読む「無能の人」はあまりにも強く心に響きすぎる。
あまりマンガは読まないのだけど、つげ義春は長いあいだずっと愛読していて、なんといっても「ねじ式」だった。(ちなみにオレはねじ式の主人公によく似ているらしいです。それってどうなんでしょう?)「ゲンセンカン主人」にもやられていて、そうか、つげ義春の真髄はぶっ飛んだ無限の世界にあるのかと思っていた。
ところが「無能の人」である。
(ちなみに竹中直人が主演で映画にもなっている。ねじ式はこちら)
あっちこっちとふらふらしながら何か生産的なことをするでもなく、人と上手くコミュニケーションもとれずのトホホな状態にいるときに「無能の人」。こりゃあ痛い。
★
ストーリーをかいつまんでいうと、
元は貸し本マンガを描いてていた一人のだらしない男がいて、(おそらくつげ本人)妻子もいるのに貸し本漫をやめてカメラ屋やらガラクタ屋やらロクでもない仕事を転々とする。
あげくたどり着くのが「石を売る」こと。
何のことはない、多摩川で見栄えのいい石を拾って店に並べるだけである。
今やプレミアの、昔描いた貸本を売って思いがけずできた小金を生活費に回せばいいのに、石を拾うための遠征費用にしてしまう。しかし大雨で全てがおじゃん。
石売り業界に潜り込んでオークションに参加するも一個も売れず、結局経費だけがかさんでいく。あげく、川で途方にくれていたところに息子がやってきて、「父ちゃん、虫けらってどんな虫?」。「それは役立たずの虫だよ。どうしてそんなことを聞くんだい?」「だって母ちゃんが父ちゃんは虫けらだって」
トホホである。
で、ずっとこんな感じで続編が続いていく。
★
「変身」で有名なチェコの小説家カフカが残した未完の長編に「城」という小説がある。
最近つげ義春を読んでいると、「城」を書いたカフカの姿がチラチラと横切る。これはどういうことであろうか?
この小説を要約するとこうなる。
とある城下町にKという医師が派遣されてくる。そして城へ入れてもらおうと城主に面会を申し入れるとあっちこっちに手続きをたらいまわしにされ、なぜか城主に会うことが出来ない。そのうちなぜか町の外に出れなくなり、宿屋の娘と同棲することになり学校の用務員にされてしまい、なぜ自分がこの町に来たのかよくわからなくなってしまう。
AからBに行きたい。ところがBに行くまではCを通らなければいけない。そしてCに行くまではDを通る必要がある、そしてDに行くまでは...で結局いつまでたってもBにたどり着けない。
そう。ウサギはカメを追い越せないという「ゼノンのパラドックス」のようなことが起こってしまう。
「変身」では突然主人公が毒虫になってしまうところから物語が始まる。つまり、不条理を前提として物語が進んでいくという形式だが、「城」の場合、いつのまにか不条理が物語の中に侵入してきてすっかり全てを支配してしまう。
いってみれば物語るという方法そのものに潜む不条理を導き出そうという深化が「変身」を経て「城」にいたるあいだに出現している。
★
昔みた映画でこんなことを覚えている。
フィリップ・ガレルの映画「白と黒の恋人たち」のなかで、主人公が新しい映画のスポンサーを頼みにパトロンのところへ行く。秘書経由でパトロンからこんな伝言が届く。「あなたが非常に有能な監督だと聞いている。話をしたいから待っていてくれたまえ」ところが本人はいつまで経ってもこないのだ。あげくそのうち警備員に追い出されてしまう。
そう、カフカの世界では「全てが可能のようでいて何もできない」、「あらゆるものが起こるようでいて何も起こらない」のである。
何をいいたいかというと、つげ義春のマンガのことをいいたいのだ。
★
つげ義春のマンガを読んでいて思うのは、とにかく貧乏だということ。
家賃に払うカネも食べるものを買うためのカネもない。何にもない。何も出来ない。
じゃあ何ができるだろう?
夢を見ることができるのである。
ラーメン屋の下宿部屋の軒先でうつらうつらしながら「ねじ式」を夢見ることができる。
「無能の人」は無能なゆえに何もできない。ところがそれがひとたびマンガになると、何ともいえない豊かなイメージがあらわれてしまう。不思議なものだ。
定理①:つげ義春にとって、下宿先の四畳半は全宇宙である。
定理②:よって私たちが超高速の飛行機で飛び回る全世界はつげの四畳半に及ばない。
今や日本はずいぶん豊かになって、お金があればたいてい何だって実現できる。マンガだってインターネットだってビデオだって、腐るほどあって、ちょっとバイトすれば世界中旅もできるし恋愛ごっこだってできる。夜遊びしたり飲みに言ったりして刺激を思う存分浴びれる。
だから夢なんて見てる必要はない-
というよりも、夢を見たらすぐに実現してしまうんだから、それは夢ではないのではないか??
★
話は変わって先日武満徹の展覧会"Visions in time"を見に行った。
そのカタログのなかで、滝口修造の死に寄せられたこんな文章が掲載されていた。
「今日この地上では凡ゆる欲望は現実化され、そのために夢は瞬間に色褪せてしまう。豊かさは停滞に過ぎず、色褪せた夢が蓄積する泥濘に私たちは足をとられている。然うした状況のなかで、瀧口さんのように真実の夢を探り、また夢みえた存在は稀であった。」
計らずして、これと同じことを今つげ義春やカフカにも感じてしまうのだ。
テレビもない、コンビニもない、クラブもない、マンガもなくてゲーセンもなくてお金もなくてセックスする相手もいない。想像してみよう。一体何ができるだろう?
そうそう、何かが「ない」ときに初めて「想像」しようって言えるんだった―
そういうわけで、想像力の栓をひねると、僕の頭はしびれるようになったのです。
-------------------------------後日追記------------------------------------
つげ義春のファンはよく知っていると思うけれども、実はつげさん本人はずっと四畳半にいるわけではなくよく旅もしている。
しかしその旅がまたその四畳半を背負って歩き回っているようでなんとも味わいがある。
挿絵いりの旅行記も多いが中でも出色なのがズバリ「貧乏旅行記」である。
断っておくが、これはバックパッカー貧乏旅行記とは一線を画する旅である。よろしければ是非。
ちなみに、フィリップ・ガレルの「白と黒の恋人」は、映画監督の主人公がドラッグの罪を描いた映画を撮ろうとするのだが、資金繰りのためにドラッグの運び屋をやるハメになったり、あげくラストは恋人であるヒロインがコカイン中毒で半ケツのまま救急車に運ばれて終わりという、なんというか全てが「元の木阿弥」的な変な映画だ。しかし何ともいえず印象的で気に入っている。こちらも興味があれば是非。
そして武満徹は戦後日本で最も著名な現代音楽家であり、映画音楽の巨匠でもある。黒澤映画の音楽も多くてがけ、若い人の間では映画音楽の仕事の方が親しまれているかもしれない。
かくいうオレもそうで、クラシックの仕事に触れたのはヨーロッパ旅行中だった。そのときのはストランヴィスキーと並んでタケミツの名が並んでいてビックリした覚えがある。クラシックではパリ一のコンサートホール"thatre mogador"では今でも小沢征邇とサイトウキネンオーケストラによるタケミツの一夜のポスターが廊下に飾られている。著述も多く、オレはこの人の言葉に強く励まされ続けている。
瀧口修造は詩人・評論家。戦前から主にフランスの新しい芸術(特にシュルリアリスム)を紹介し、また自らも詩だけでなくオブジェやドローイングを造った。彼の門下生(瀧口幼稚園といわれている)からは、音楽家の湯浅譲二や高橋悠治、詩人の大岡信や谷川俊太郎など、後に大きく名を成す人たちがいた。偉大な人だ。
ちなみにこのブログではジャンルやら話題やらがよく飛ぶのでできるだけ補足をしようと思う。わからない点、納得いかない点があればご一報を。
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アボガドを食す。あるいはポルノにまつわるあれこれ
http://hirakoue.exblog.jp/2777379/
2006-07-12T01:48:17+09:00
2006-07-12T01:48:17+09:00
2006-07-12T01:48:17+09:00
hirakoue
☆ ブレイク
無くなってくるわけですが、夏になると肉や油や乳製品がしんどくなってきたときには何を食べるべきか...
アイスや冷麦も悪くないけど栄養ないし、夏野菜ばっかり食べててもビタミンしかとれないし...
そんなときはアボガド!
最近めっきりこの野菜にはまっているのですが、その食感といい、ネトっとした感じといい、中に詰まっている感じといい、何かよからぬモノを連想しませんか???
古代アステカ民族のあいだで使われていたアボガドの語源、実は「陰嚢」と同義語なのです。そうそう、タヌキが伸ばして使うアレです。
16世紀にメキシコからスペインに持ち込まれ、19世紀末には欧米全土に波及したアボガド、それが実は「金玉」だとどれぐらいの人が知ってるのでしょうか??
ロハスな食事に目がないセレブなレディたちが目を輝かせてほおばる、「アボガド」こと...
どうも古来から人間のイマジネーションはことセクシュアルな領域で一番発揮されるようで。
★
中世、中国や日本の文献でしばしば登場する「龍玉」なる道具、一体何のために使われていたのか研究者のあいだで色々と議論が尽きないようです。
玉子を若干小さくしたほどの大きさのつるつるとした玉で、触れると熱で膨張しまるで生きているように動き回るこの珍宝はただ観賞用に作られたのか、それとも何か用途があるのか....
答えは意外にもヨーロッパの文献に登場します。
主に日本で造られた龍玉はイギリスやフランスにも輸出され、なんと貴婦人の「お楽しみ」用に使われたとのこと。
確かに、その大きさ、形状、熱で膨張して動き回る、などの要素は「ソレ」にうってつけ。
製造方法としては、空洞をあけた軟金属の玉の中に水銀を流し込んで密閉するとのこと。
熱で膨張した水銀が玉の形を変え、空洞の中の水銀の位置が変わると重心も移動するためわずかの運動で転げまわるという仕組みです。なるほど。
ちなみにそのヨーロッパ版「龍玉」は「愛のリンゴ」と呼ばれたそうな。まさか、赤く塗られてソレ風に売られていたとか?
★
さて、かつてなく熱中して見たワールドカップもイタリアの優勝で幕となりましたが、あの決勝、良くも悪くも印象に残る試合になりました。イタリアの世界一は色んな意味で「試合巧者」だったということにありそうです。
ところでベスト4の時点で南米勢が消えて、EUカップになった今回の大会でしたが、個人技を生かした攻撃的なチームが多数の中で、決勝に勝ち残ったのはチームディフェンスで謹勝する2チームでした。前回のブラジル優勝の後で、元オランダ代表フライングダッチマンことクライフ氏が「個人技で全てをもっていくようなサッカーは面白くない。組織でプレーするサッカーに醍醐味がある」みたいなことを言っていましたが、今回についてはコメントするのでしょうか。
80年代のオランダ黄金期、プラティニひきいるシャンパンサッカーのフランスもチームプレイでしたが、今回とは何かが違うと感じます。それは何だろうな??
JOAGO BONITOはいずこへ???
まあとにかく、これで朝まで寝れない日々は終わりました。
これからは健康的な生活をするぞーーー
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⑦ 吉見俊哉 「転移するリアリティ/reality transit」
http://hirakoue.exblog.jp/2691575/
2006-07-03T02:04:00+09:00
2006-07-03T04:51:20+09:00
2006-07-03T01:59:29+09:00
hirakoue
⑦ 吉見俊哉
ただし残念ながらそれは"精神病"や"人間関係"や"オレ的こだわり"などの、「市場価値の高い」キーワードではなくて、あくまで都市や情報の「デザイニング」という観点から話すことにする。
(今どき☆ギャルズの日常からリアリティを探りたかったらTOKYO REALなんて小説はどうでしょう?)
★
では個人的な話から。
先日下北沢に近日オープンする気流社というカウンターカルチャー(あくまでサブカルではない)専門の本屋さんのプレオープン企画として、「レイブ以後/都市」という講演会というか座会のような催しがあった。
そこでいくつか面白い話を聞けたのだけれども、その中の一つ:
なぜ「リアル」という言葉を口にすると違和感があるのだろう?それはきっとリアルという言葉が資本に回収されたからだ、との発言。
それはどういうことだろうかと「資本に回収される」なんていうわかったようなわからないような表現を使わずに言い直してみるときっとこんな感じだ。
まず、言葉が繰り返されすぎて輪郭がぼやけてしまったということ。そして、その言葉の背後によからぬ意図が透けて見えるようになってしまったということ。
トレンディドラマに制作費と有能なプロデューサーの労力が注ぎ込まれれば注ぎ込まれるほど「愛してる」という言葉が嘘くさくなるように。
まあ深く立ち入って議論しなくていいだろう。テレビ欄の見出しに「マル秘17歳女子高生のリアル」とあっても、どうも民放のバラエティ番組が赤裸々なリアリティを提供してくれそうな気配はなさそうだし。
で、それに対して、ヒップホップは「回収された言葉」を「埋葬」していく(そうだ)。
そして新しい表現を発明していく。その中のヒット作はまた「回収」されるだろう。そしてイタチの追いかけっこがまた始まる。
で、そこで別の視点をとってみよう。もしかして「リアリティ」は一枚の写真や広辞苑にのっている一つの単語のような固定された像ではなく、いったん定着したと思ったらまたするりと抜け出していく「現象」のようなものだと。あるいは、言葉にはしづらいけど、ある高い普遍性をもった「感じ」Feelingなのではないか、そしてそのFeelingは、今日と明日で同じでないかもしれない―
ということで今回は吉見俊哉さんの「リアリティ・トランジット」を取り上げながら話をしよう。
リアリティ・トランジット、それは推移する「リアル」を把握しようとする試みだ。
(ちなみに吉見俊哉さんは東大学際情報学府の主任。HPはこちら。興味があれば是非)
★
少し前に、ジョージ・リッツァの「マクドナルド化する社会」という本が話題になった。
どういう本かというと、マクドナルドの徹底した合理主義の経営方法を多くの会社がマネして、そしてそれは企業だけでなく社会全体に波及するという現状がある。ところでじゃあ社会全体がマクドナルドのように徹底的に合理的、リスクを回避し、資本を拡大できるようなシステムになったら全てが上手くいくのかといったら全然そうではない。いわばオレが前回三回にわたって手を変え品を変え解説したことをマクドナルドというキーワードから分析した本だ。
で、このブログの中で、農民による「マクドナルドの破壊」という話題もでた。
もしマクドナルドのフードプランニングと地域農業の有機野菜を「経済効率」というモノサシで比べたら地域農業は惨敗するに決まっている。としたら、農民はクワならぬ、13日の金曜日よろしくチェーンソーを持ってドナルドを八つ裂きにしなければならないのである!!(この話も近々、スローライフとロハスの比較をしながら分析してみたい)
で、このリアリティ・トランジットではその姉妹版というべき「ディズニーランド化する社会」というべき論文が載っている。
それはこんな話だ:
日本においてディズニーランドは大成功を収めた。
ランドに続いてシーがオープンし、今はホテルミラコスタの姉妹店を建設中だ。集客は長期にわたって高値安定で、キャラクターグッズは飛ぶように売れ、母子が手をつないで年に何度もディズニーマニアとして「夢とファンタジーの国」に没入していく。
さて、このようにしてとにかくディズニーランドはグランドサクセスをモノにした。
そして次のステップ、マクドナルドのケースと同じように、都市計画がディズニーランドをお手本にするのである。
例えば地方の自治体がなんとか人をたくさん集めたい。じゃあ町をディズニーランドにのっとって、アミューズメント要素いっぱいの「テーマパーク」にしてしまおう!!
そして80年代以降、好景気のあおりもくって全国に有象無象のテーマパークもどきの変な町が雨上がりの筍のごとく林立してしまったのであった。長崎にはオランダ人のいないオランダ村ができて、渋谷にはスペイン風の坂ができた。(ちなみに、長崎はオランダでなく渋谷はスペインではない。オランダ人とスペイン人を呼びたかったから作ったわけでもない)
町に人を呼びたいという気持ちはわかる。ところがここには致命的な問題がある。
人が町に暮らすということは、そこには生活がある。ところがアミューズメントで人を呼ぼうとする発想にはその「生活感覚」が抜け落ちている。そう、岡崎京子のマンガの女の子や女の子の部屋や女の子の人生に「生活感」がないように―
ディズニーランドの強みは、人を日常生活から「夢とおとぎの世界」に脱出させることにあった。ところがもし日本中がディズニーランド化したら、僕らが帰るべき日常なんてあるのだろうか―なんて一月分のサラリーをもらえそうなキャッチコピーのような状況になってしまう。
しかし更にまずいことに、70年代はじめから社会のマクドナルド化もディズニーランド化も見透かしていたフランスの社会学者ボードリャールは、その話は「もし」ではなくすでに現実なのだと言い放つ。いわく、「ディズニーランドは、アメリカ社会全体がディズニーランドだということを”隠蔽”するために存在している」。
前回のブログで少し触れたように、アメリカの生活空間の形成がモダンデザイン―車、テレビ、カタログ通販―を通して行われているのだとしたら(実際詳しい人教えてください)、隣家やちょっとした買い物に車で行かなければいけない生活、人口過密の都市は人種、文化ごとにエリア分けされ(PUBLIC ENEMYのBLACK KOREAN GHETTOのごとく!)郊外のスーパーはもはや一個のショーケース都市のように巨大にそびえたち、ウォーホールがキャンベルスープを膨大に刷りまくり、複製しまくったのに「リアリティ」を感じるとするならば、ボードリャールのことばには"YES"、"OUI"、"然り"である。
そして、吉見俊哉さんが警告するように、日本もまたディズニーランド化しているのか?
で、ここで健全なディズニーファンの乙女なら反論があるだろう。
そのような不気味な生活空間と違って、ディズニーランドには「夢とファンタジー」があるじゃないかと―
ところがその「夢とファンタジー」、「カワイイ!」こそが、「隠蔽装置」なのだ、とボードリヤールは言う。ちなみにオレも言う。
恐ろしいことだ。もしオレたちが「夢とファンタジー」と「可愛らしさ」を取り除いたディズニーランドに生きているとしたら―
★
まあとにかく、オレが思うに日本はアメリカとちょっと事情が違う。というのも日本はモダンデザインが登場するまえから村があり町があり都市まであったのだから。
オレが思うに、土着の文化は簡単にロナウド・マクナルド、アドリアーノ・スタバ、ロビーニョ・ディズニーランドの3トップの下に、カカ・ロビイスト政治とロナウジーニョ広告代理店戦略の現代文明に制圧されはしないのだ。(何を言ってるって、もちろん先日のフランス勝利のこと!)
しかし楽観視もしていられない。
なぜならいま日本文化は猛烈に「ほんわか」してきているからだ。オレは電車で前にいる背広姿の企業戦士がハチクロ(註釈するまでもないだろうけど「ハチミツとクローバー」というマンガのことです)を熱心に読んでいるのを目撃するとめまいがする。
まあレトリックというのは使いようで、「造反議員」と感情をあおってみるのも、「郵政民営化反対派」と客観的に呼んで見るのも、「おばさん」と呼ぶのも「熟れごろ」と呼ぶのも対象としては同じものを指しているのだから、「企業戦士をハチクロが癒している」ともいえるし「企業社会の根本的な亀裂をハチクロが紛らわしている」ともいえる。
「ブラジルは貧しさにサッカーとサンバで打ち克っている」とも、「サッカーとサンバばっかり夢中になっているから貧困の解決に頭がいかない」とも言える。
しかしオレが確信しているのは、「自分はいま"ほんわかさん"に男子便所でバックからレイプされている」という感覚だ。
話がそれてしまったけれども、色んなメディアがよってたかってリアリティを去勢してしまった。あるいはこうも言い換えられる。メディアは膨大な量のリアルを速射砲のごとく乱打して、結局リアリティを選択するヒマなんてなくなってしまったということだ。
選択している時間はない、あるのは通過、そしてまた次の通過"PASSAGE"のみだ―
というわけでそれに倣って次はまた全く違った話題でリスタートしたい。
数少ない物好きな閲覧者の皆さま、いましばらく「敷居学」にお付き合い下さい。
いざ次の乗り換え"TRANSIT"へ!
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⑥ モダンデザインをめぐって・下
http://hirakoue.exblog.jp/2653791/
2006-06-29T03:19:00+09:00
2006-06-29T06:26:53+09:00
2006-06-29T03:19:04+09:00
hirakoue
⑥ モダンデザインと日本
たかがブログでこんなことを言うのもおこがましいけれど、ここまで読んでくれている人はぜひ終わりまで付き合って欲しい。
(というのもアクセスも少なければ反応もそこまで多くないこのブログを書くのに少なからぬ読書と調査をしているからで、見返りは求めてないけども、少数の閲覧者の皆には熱意をもって読んで欲しいと願っています。)
さて、とにかく土着のデザインはコンセプトにおいてもコンディションにおいてもモダンデザインとは根本的な違いがあるということはある程度説明した。
これからが本題。
モダンデザインとは何なのか、何のために存在しているのか、誰が必要としているのか?
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このブログを始めるきっかけをくれた、そして様々な領域への好奇心を向けさせてくれたドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンの「パサージュ論」で現代建築への言及がある。
(ところでフランス語で通過・通路・滞在などの意味を持つパサージュを「敷居」と訳した伊藤秀一さんはとっても切れている)
ここで、ベンヤミンは20世紀初頭に登場したバウハウス建築に注目する。
例えばミース・ファンデル・ローエが多用したガラス、これは何を意味しているのか。例えばゴシック建築と建築すると、ゴシック建築は柱と壁で外部と内部を「仕切って」いく。つまり外部と内部は非連続であり、不透明である。これは、アラブ建築では更に徹底され、モロッコのメクネスやフェスの迷路街「スーク」ではその街区そのものが一つの迷宮のように外部から「遮蔽」されている。
これに対してバウハウス以降の現代建築は、全て「窓」で建築していこうとする傾向がある。新宿西口の高層ビル群を見ればわかるとおり、外から見えるビルの壁面はほとんど窓ガラスで覆いつくされていて、前回ちょっと触れた青山プラダビルにいたっては「窓」しかないのである。
壁と柱は極力排除されるように設計されている。ここで建物の内部と外部の関係は、「外から覗き込む視線」によってあいまいになっていくのだ。
このような傾向をベンヤミンは「室内空間での個人的な生活の消失」だと見る。
極端な話もし個人の家庭の壁面が全て窓ガラスになったとしたら、つまりその人の生活はガラスケースにいれられたアリの巣よろしくすべて「筒抜け」になってしまう。
さて、意識的にか無意識的にかは知らないが、もしこのように建築の「透明性」が増していくとすれば、それはその中で活動している人たち(つまりオレたち!)が「外から見られること」を欲するようになったともいえるし、外部の人たちが建物のなかを「見たい」と思うようになったともいえる。
(ところでロンドンでは地下鉄テロ以降、ほとんど全ての公共施設に監視カメラが導入され、車道を走る車のバックナンバーはコンピューターで管理されている。あまつさえ政府はドライバーにその管理費をよこせという始末だそうだ。この論理はタレントのオーディション参加にお金を払うのに似ている。そう、「始終不特定多数の誰かに見られたければ金を払え」のごとくなのである。)
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ここでベンヤミンの同時代人、スペインのジャーナリストであるオルテガ・イ・ガゼットに登場してもらうことにする。社会学の古典である「大衆の反逆」は時代変化によって通じなくなってしまった文脈もあるけれど、現代の都市生活に疑問を持つ人は是非一度読んでみるといいと思う。
かいつまんで要点をいうとこうだ。
現代とは、貴族社会(特権階級)から大衆社会へ移行する時代である。大衆は社会に向かって、自分たちの欲求を満たす条件を要求する。そして、大衆は大衆のままで(つまり、フツーの人のままで)特別な人間としてのアイデンティティーを要求するのである。(なぜならフツーでない特権階級の価値はすでに失墜しているからだ)
あくまで貴族社会を支持するオルテガを絶望させたのは、知人の貴婦人がパーティの成功を「より多くの人」が来場することだというセリフだった。もはや貴族ですら不特定多数の注目から自由でいられない。
そう、つまり重要なのは「マス」に四六時中見つめられることであり、よりたくさんの「大衆」の注目を得ることがより優れたアイデンティティーに直結するのである。(この話は後日写真を取り扱いながらより詳しく論じることにする)大衆にとってのアイデンティティーはMIXIの足あとページなのだ(といったら意地悪すぎる??)
ここで一つ転換点が訪れたといっていいと思う。あらゆる価値基準が質から量へと、低速から高速へとギアチェンジされたのだ。
無名の大衆たちの多くが、「特別」な人間になることを望んだ。しかしそれは「特権階級」になることではない。つまり、質の転化ではなく、特別な大衆になることを望んでいるのだ。
わかりやすく言えば、隣のあのコより「ちょっと」個性的、のファッション誌のキャッチコピーであって、コンバースのスニーカーよりはマーク・ジェイコブスのパンプスであって、ユニクロのジーンズではなくてツモリチサトのシフォンスカートであって、ちょいモテ親父でジミータよりアテージョで...脱線してもいいなら例を限りなく挙げることができるぞ!!
で、女の子たちの目標はグレタ・ガルボや原節子ではなくて長谷川京子やあまつさえMEGUMIや熊田洋子なんかのイエローキャブのグラビアアイドルすらになり、驚くべきことに、去年のモーニング娘。の新規メンバーオーディションには2万人以上の応募があったのである。(といってもこれは主催者の発表であって実際はもっと少ない、という反論があるが、問題なのは主催者が数を多くサバよんだということである。つまり、主催者が望んだアイドル像は、できるだけ多くの女の子が「私もなれるかも!」と錯覚を起こさせるもの、ということだ)
アイドルやファッションだけではない。政治演説においても、「庶民にわかりやすい」ものが無条件に好まれ、これに乗った田中角栄や石原慎太郎が横暴を犯した。
近年の新書ブームもそうである。いまや「だれにでもわかる」こそが至上の美徳なのである。
(で、オレとしてはこの牙城を崩そうと頑張ってみるのだがいまのところどうも分が悪い)
これを言い換えてみると、「大衆にあまねく理解されないものは無いも同然」なのである。そう。ここ100年で大衆はそこまでの権力をもった、がオルテガが批判するのはそれに見合うだけの「賢明」さを持つのだろうか、ということなのである。
権力を持った大衆はその要求に答えて感情を揺すぶったナチスとヒトラーをまんまと与党にしたてあげ、そしてその後ヨーロッパは泥沼の戦争に突入する。
現在の日本の状況を見てみても、大学や専門の研究領域を除いては、「あまねく大衆向け」の言葉しか存在していないとすれば、日本の知性の底は限りなく薄いとしかいいようがない。1000万部前後の新聞紙がいくつもあるかわりに、TIMESやLIBERATIONのようないわゆる「クオリテイ・ペーパー(ここでも質の問題!)」が存在していない状況を良いと思うか悪いと思うか、それも皆に聞いてみたいと思うんだけれども....
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話がそれたけれども、オレが言いたいのは、モダンデザインとはオルテガいうところの「大衆」に向けて作られているということだ。大衆の欲求に応え、より多くの欲求を引き出し、隣人と同じものを手に入れることができ、それに不満なら「ちょっと」違うものだって選択することができる。
建物がガラスになって、隣人の生活を見ることが出来るようになった―これは恐ろしいことに、物理的な話だけではすまず、隣人の欲望をも覗き見れることになったことの隠喩でもあるのだ。そう。モノを手に入れたいと望む欲望も「透明化」したのである。
まずは1920年代、(またもやベンヤミンやオルテガの同年代!)アメリカ消費文化の幕開けである「黄金時代」。社会の教科書でも習ったであろう初の大衆向け自動車「フォード」の登場である。とりたててエリートではないフォードの組立工のほとんどはフォードを所有していたそうだ。というのも、給料の2,3ヶ月分でフォードが買えたからなのである。(同様にトヨタの組立工はどうか。)そして、ハイセンスかつ低価格な電化製品ゆインテリアを満載した前代未聞のカタログ「シアーズ」が大衆家庭に普及した。そう、「よりよい生活を、全ての人に!」の全世界的な横行が開始されるのである。
フォードさえあれば、職場からはるかに離れた野っぱらのど真ん中にマイホームを持ったって大丈夫!隣家と何マイル離れていたって電話とテレビがあれば寂しくない!
かくしてリチャード・ハミルトンのコラージュよろしく不気味で非人間的な生活環境がアメリカの郊外を覆っていった。(ということはアメリカの生活圏における距離感覚は100年近く前から人間の身体感覚を超えていることになる。)
で、日本ではモダンデザインの大爆発は太平洋戦争後である。
クルト・ジンガーが魅せられた「三種の神器」(勾玉・鏡・剣)は戦後、掃除機、洗濯機、冷蔵庫となって復活した。前者と後者で違うのは、前者は特別な「宝物」であり、後者は誰しもが手に入れられる可能性のある「モダンデザイン」だったということであり、前者は神と権力者に捧げられ、後者は大衆のよりよい生活に捧げられたということだろう。
その後はブリジストン、ソニー、松下、トヨタ、コニカ....数えればキリがないが膨大な数の種類のモダンデザインが膨大な台数流通した。
トナリがカラーテレビを買えばウチも買う。この論理こそまさにオルテガの予見した論理である。もはや特権階級や神のためのデザインは存在しない。(念のために説明しておくが特権階級とは金持ちとイコールではない。かつては大衆は金を持ったところで商人から王侯になれなかったのである)
オルテガは今まで数こそ多いものの決して舞台に登れない存在であった大衆が堂々と舞台に上るようになったのだ、と言った。その通りに民放のバラエティ番組には素人が乱舞し、芸人の素人化も積極的に進められているではないか。(ロンドンブーツと素人の間にある境界線は、素人を上手いじくれるかどうかにある。ただしそれ以上でも以下でもない)
で、その文脈でえばデザインは今や大衆の役者としてのアイデンティティーを演出するための舞台装置、あるいは小道具になってしまった。
カリスマデザイナーが「発明」した画期的なデザイン???
佐藤可知和がデザインした携帯のデザインは一ヶ月もすればドン・キホーテやダイソーのプロダクトに移植される。
一体この現象は何と説明すればいいのか?
このためには今までやってきたようなデザイン史を辿るだけの思考では限界がある。なので次回では、それに加えて主としてボードリャールの論旨を借りながら「記号」と「差異(要するに細かな違いということだ)」というキーワードからモダンデザインを読み解いてみたいと思う。更には、その観点から見るモダンデザインをどう思うのかという個人的な意見も付け加えてみたい。
次回に続く!!]]>
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