hirakoue
個人的な逆上から始まったトピックスにたくさんコメントがあって、本当に嬉しい限りです。これで何千文字もキーボードうった甲斐があるってもんです。 Cさん: レポンス待ってます。試験合格祈ってますぞ。 J: Wのコメントを読んでどんなことを思う? 多分まだ(といってもオレもだけど)Jは色んな情報とかアイデアとか感情がごっちゃになっている段階なんだと思う。ちょっとずつ色んなことを知って整理していくべきだと思うよ。オレとゆうじのやりとりで大体わかったと思うけど、もうただ漠然と、賛成か反対とかいうレベルでは済まない問題だから、何か知りたいことがあったら、知り合いでも大学でも使って深めていくことを期待してます。 D: その通り奪われてるんだよね。たださ、色々考えなきゃいけないことがあるけど、仕事で疲れきってそんな余裕ないっていうのもかなり説得力があるわけでさ笑 生活レベルから政治を考えようって、実は仕事だけで疲れきらない環境を作ろうというっていうコンセプトがマルクス登場以来あると思うんだけど、最近はともするとそういう考えって、ロハス食作るための手間が更に加算されるだけのケチな思考にしかならなかったりする。 日常レベルから政治を考えるのが、多分もっともラディカルになるはずなんだけど、最近は妙にほんわかしちゃってるよね。ロハス食に、フランフランのエプロンに、お団子頭、とかさ こういう子が「ラブアンドピース!」って萌えはすれども、若干イラッとするかもしれない。。(反論がある女子かかってこい!!) 話がそれた。 自殺者は増えてるなー。景気よくなってる?いやあ実感ないな あ。核?いかんなー、ま、どうでもいいけど「うち」にはおとさんでくれよ。 こんな意見が世論な気がしてならない。> その通りだよね。こりゃ名言だ。 飲酒運転に関してはさ、もちろん酔っ払った車にひかれる人は少ないほうがいいに決まってるけど、酔っ払い運転している人に対するイメージづくりがヒドいよね。もはや国賊扱いじゃん。 多分、Dの懸念は、朝のニュース番組でのみのもんたの飲酒運転ニュースに対する逆上を見るとわかるよね。何でそんなに怒ってんのみのさん? まあロジックとしては飲酒運転者を村八分にすることで根絶しましょうって発想だけど、それが非戦論者にも適用される可能性は十分ある、と。 MTさん えーと、ほんとに町さんの仰るとおりで、別にディベートで勝ちたいがために相手を批判するのはおかしい。 なので、当初のオレの態度はほんとにオトナじゃなかったです。という点ではWがオトナだったわけで危機は回避されたと笑 ついては昨日泥酔しながらいろいろ話したので大丈夫です。 ただですね。今回のやりあいについてはオレは「説得」だと思ってるんです。だれに対してかというと、ゆうじはもちろんオレの意見を受け入れない人全員です。 でですね、対して相手もオレと同じコンセプトで向かってきてることを前提にして今回の一連のやりとりをしたんですね。 オレは絶対相手に自分の意見を納得させたい。そして相手もオレを納得させたい。そこで色々意見の交換をしなければいけない。それで結果的には多分、ある程度お互い歩み寄ることになるんですけど、ただ最初は100%相手を説得する!っていう気合がないとディベートって成り立たないと思うんですよ。 で、まあそれと個人的な友情は「また別」にできたから本当によかったなと思います。そういうことを理解してくれるぐらい友達が大人だったということに、です。 MTさんのケースのように、往々にそれで人の仲もダメになったりしますから。それはやっぱりとても悲しいことでしよう。 とにかく自分もできるだけクールに議論ができるよう努力しなければなりますまい。 本当にこのトピックスをきっかけにして、たくさんの人に自分と日本、とその向こうの国についての関わりあいを意識してもらいたい。と思ってます。 ------------------------------------------------------ hirakoue 『まだ討論は続くか』 まだこのトピックスを終わらせたくないので、mizuhoさんの書き込みに対する返信を新規の日記にすることにします。 まず最初に,このトピックスへのリンクですが歓迎です。 できれば首相官邸やホワイトハウスにも読んでほしいものだ。 まずmさんの書き込みの最大の論点は、「私」と「公」というか、個人と国家の関係にあると思います。 で、それを解説してくれて、とても同意できる部分が多いのですが、ほんとに実感のこもった書き込みをしていただき感謝しています。 でですね、それってオレが最近一番人に伝えたいと思っているキーワードでもあるんですね。 この複雑な関係をもう少し立ち入って説明していけば、オレの日本人離れした笑個人主義の根拠がわかってくるかと思います。ということで、mさんの書き込みの補足。 『今の私が生きている実感で「個人主義」と「公」と「個人」について考えると、 公は個人を守るためにあるんだよね。 個人はそれぞれの欲望を持っているのだけど、人は独りで生きて行くよりはみんなで生きて行った方が楽しいから集まりたがる。そこで、それぞれの欲望でぶつかったり不利益を被ったりする。 でも、人はみんなで生きていきたいから、みんながなるべく幸せに生きて行けるためにルールが介入した場所が公だと思う。 だから、公が先にあるのではなく個人が先にある。 公は個人の欲望を抑圧するのではなく、なるべく多くの個人が幸せになるための形を見つけるために、 その都度、変更もされる。 』 というのがまず基本認識。 その上で、「国のために戦争へ行く!」っていう発言は、本質的にこの基本認識が逆さまになっているわけです。 国は個人の利益を守る⇒その国が危機にさらされている⇒国のために戦争に行く という論理展開に基づいているのかもしれませんが、ここでかなり危険な間違いを犯す可能性があるんですね。 まず、個人=国という認識が出来上がってしまうこと。 これは、英語でいえば、I=WE になる危険性なんですね。確かに1億2000万人の「私」が集まると、日本人という「WE」になるんですけど、その逆の思考はできない。 端的に言えば、I×120000000=WE の逆の、 WE÷120000000=I はできないということです。 ということは、最終的にはI=WEは成り立たない。 なんでかというと、1億二千万人の<I>はそれぞれ違う人間だからなんですよ。もしI=WEが成り立った瞬間、個人の個性は消えてしまうわけです。それの一番わかりやすい例が軍隊です。(だからオレは軍隊が嫌い) ロジックとしては、日本人の顔全部をインプットして、それを平均化したモンタージュ写真を合成しても、その結果出てきた顔なんて実在してないんですね。まずこれが国家と個人が決定的に違う理由。 国のために戦争へ行く、つまり軍隊へ入る・の時点ですでに避けがたく個人という存在が消える。まずオレはこれが嫌い笑 国を一番きちんと統治できる形って、つまりは国民全員おんなじになればいいんですよ。で、同じになるようにプレッシャーをかけて、同じ服で同じメイクで、おなじ表情で、同じ考え。 まあそれが完璧に成功できればいいんですけど、自分みたいにどうしてもそれができない落ちこぼれがいる。残念ながら。 そしたら、その結果何が起きるかというと、その落ちこぼれを抹殺すると。ユダヤ人とか、アカとか、ニートとか飲酒運転者とか。 でですね、そもそもこれが戦争の起こるプロセスなんですね。暴力に対する暴力を展開するロジックの中にすでに次の暴力が生成されるという恐ろしいロジックがあるわけです。 だから、もし次の全面的な戦争がもう歴史の終わりならば、いくら理想論だと言われても、暴力を絶対に正当化しない思考が必要なんですね。だって、理想論やめて現実的になったら地球滅亡ですよ?? 家族が危ない!っていうのは確かに説得力のある煽りですけど、それは飢饉のときに、この種米を食べたら、来年は米作れないぞ!っていう恐怖なワケで、オレのいいたいのはじゃあさつまいもとか食ってみっぺか?という論理なワケです。 (でも来年はお米が食べたい!) 話がそれそうだ。で、国家についてのかなりラディカルな論を引用しましょう。発言者は「ものくう人々」の辺見庸さん。 まず辺見さんは、「邪宗門」の小説家高橋和己さん(今の日本文学好きの若い人はこの作家を読むのだろうか?)の「国家を国家たらしめ秩序づけているのは、軍隊と監獄」である、という認識を考察する。もし監獄と軍隊がなければ、国家に反逆しても何にも怖くない。だから、反国家というのは軍隊と監獄に対しての「対抗暴力」だという理屈になって、高橋さんは赤軍派に肩入れしたりするんだけど、国家暴力に対しては反抗暴力だというのも、このトピックスのやりとりを見ていくと、それも結局は戦争/暴力の続いていくシステムの中に組み込まれることは自明。ということは、法と軍備についてオルタナな意見を持たなければいけない。 前置きが長くなったけど、ここからが辺見さんの発言の引用: 『(エンゲルスの国家についての考察について)最善でも、国家は一つの災い...私はこれ以上的確な国家論を知らない。思えば、国家はわれわれにろくなことをしたためしがないのだ。民主的な共和制だろうが、そのお慈悲は、戦争や他民族の抑圧など巨大な厄災に比べれば、ほとんどなきに等しいものではないか。』 どうですか。もう無条件の、国家というシステムのこきおろし。確かに人間は社会的な生物だから、(他の生物と同様にね!)国家をもたざるを得ない。ところが持ったら持ったで最悪笑 国家にそもそもの希望を持つなということなんでしょうね。 国家暴力の究極の形って、国内に対しては死刑で、国外に対しては戦争だよね。他の国に裁かれるまでは、どっちも責任者は怒られないからさ。 で、それを踏まえると、やっぱり国が危ない!とかは国家に対する肩入れで、本質的に暴力肯定なのね。国が危ない!じゃなくて、国は危ない!というべきでしょうか。 だから、オレとしては、国は基本的にひどいんだけど、よりひどくしないために個人が批判し続けるしかない。 で、日本の非戦主義って、これは辺見さんの受け売りだけど、国家の秩序維持のうちの一つを捨ててるわけです。 個人にとって最悪なのが、国家が個人を迫害してでも、国家であることを維持しようとするシステムなんだけど、日本は国みずからそのシステムを放棄してる。つまり個人に優しい笑 Cさんが戦争とかお金は怪物みたいなもんで、自ら意志をもって暴走してるって言ったけど、それは国家そのものもそうだと思います。 日本の太平洋戦争ってさ、関東陸軍のお偉いさんと天皇以外全員死ぬまで、お国のためにバンザイ突撃するつもりだったわけじゃない。でさ、もしそれがみごと実現して、お偉いさんと皇族の人だけがポツンと日本列島に残って、そしたら多分オレは「お国」ってナニ?って思うに違いないでしょう。 だから、国家の一番マシなかたちは、国家が個人の権利をジャマしない程度のことだすよね。でもそれがめちゃくちゃ難しい。 <「個人主義」っていうのがまさに争いを引き起こしている> のように見えるのは、やはり国家が争いを巻き起こしているということなんですよ。個人第一主義だろうと、共同体第一主義だろうと、国家は戦争する笑 だから、国民ができる最善策ってのは国家が戦争をするシステムを放棄する。 で、そのときの国民ってのは必ず個人としての国民でないとダメだよねっていうのがオレの論旨でした。 っていうことで話がまとまったように思います。 いや、まとまってないかも。皆様、ご意見ご感想お待ちしております。 -------------------------------------------------------------- K 国家の、その本質を問い直し話題になった本。 『国家とはなにか』 ・ 萱野 稔人 (著) http://www.amazon.co.jp/gp/product/4753102424 <国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行為の独占を(実効的に)要求できる人間共同体である>byウェバー ------------------------------------------------------------- m 叩き台にしてくれてありがとう。 私が書いた公と個人の内容は、忘れちゃったのだけど、 多分、ホッブスの次の次の人あたりの考え方だよね。 あと、その考え方が民主主義国家の大元じゃなかったっけ。 まさに日本国憲法http://constitution.at.infoseek.co.jp/ の第十三条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 がそれを表現しているのだと思う。 (「公共の福祉」ってところが、これから拡大解釈されていくのかもしれないけど) 一応、日本は今は民主主義国家なのです。 『民主主義の本質は個人主義、多様性、そして有機的な差異化にあります。 民主主義国家は、生命の自然の方式によって、その枝が分岐し、その機能が決定され、その形態が増殖するような、いきいきとした有機体として思い描かれるべきなのです』 とはハーバードリードの「芸術による教育」から。 民主主義国家だろうが、全体主義国家だろうが、国家という形態はひらく君の言うように おばけのように民衆を食べてしまうのかもしれない。 そのシステムは、私もすっかり忘れてしまったけど、大学の国際政治学とかで学んだような気がするよ。 でも、理想でも、日本国憲法は日本人には高尚過ぎても、 今は、一応、民主主義で、学校でも会社でも政治でもその考え方がベースになってるはずで。 そうじゃなくても、それで進めてよい訳で。 個人の多様性、独自性はその共同体にとって価値になる!と胸を張って言ってよいわけです。 ほんで、ハーバードリードさんは その個人の多様性を社会に還元するためには芸術が必要であると言ってます。 この時の芸術とは、狭い意味の芸術ではなくて、それぞれの人の表現手段みたいな感じで。 例えば、いくら個人が尊いからといって、それぞれがばらばらで交わらないってのはもったいないし、鬱屈していくだけ。そこで、自分が思っていること考えていることを他者に向けて表現して、お互いが刺激し合い有機的な構成をなしていくのが大事。 だから、他者と関わるために表現が大事で、その時の表現は攻撃的なものでなく人間の感覚に根付いているものを最大限に利用し他者に共感を得られるものであることが好ましいと。 mixiとかはまさにその表現手段だし、みんながここで自分の思っていることを表現することがやっぱり民主主義っぽいのじゃないかな。 私がやってる図工も、基本理念はそれなのだ。 人にどうやって自分のこと伝えるか!それも楽しく上手く工夫して。 あと、例えば、素人の乱のデモとか、反権力しながらユーモアでどこか茶化すところが松本さんの表現手段のうまいところだと思うのだよね。 芸術ってユーモアの中にあると思うんだよね。 と、何か論点がそれてきたのでここらへんで。 --------------------------------------------------- hirakoue おはようございます。早起きで返信します。 萱野稔人さん、ウェーバー、ホッブス(は直接でないけど)、ハーバード・リード... 良いですねー。この一連のトピックスを読んだら単位か資格かもらえるようにすべきですね笑 Kさん: この本の意義のあったところは、それまでの左翼というかマルキシストがどうしても国家を、システムというか、何か実体のないものとして批判してきたものを、確かに肉体を持った機関でもあるよと言ったところですね。 そういう点から見てみると、辺見さんの発言が説得力をもったものとして浮上してくる。 原理的にいえば笑、人々は国家に愛想をつかすはずなのに、なぜ進んで国家に加担していくように見えるのか?? それはやはり、国家が人を抑圧し、そして同時に魅了もしていくという身体があるからなんですよね。なんてこともそのうちゴールデン街で。 m: 前にアーティストにとっての自由なんていう書き込みもありましたが、表現と自由とか、芸術と政治っていう問題は自分にとっては非常にやっかいな問題で、あえて議論のなかで無視してきたんですが、そろそろ逃げられなくなってきたな笑 オレもアーティストのはしくれなワケで、政治と芸術の問題というのはよくよく考える問題です。で、まず第一に、政治と芸術はイコールでなくて、さらに弁証法的に結びつくわけでもない。あくまで、「別モノ」なんです。 Kさん、こないだゼロ次元のインタビューの帰り際にもちょっと話したことですが、基本的にアーティストはオカルト的なモノにひかれるんですよ笑 本質的に、芸術は秘教的であると思うんですね。対して、政治は理性的であるべき。 (こういう意味でベンヤミンは詩人と学者二つの側面があると思います)この二つは絶対に和解も交換もしちゃいけない。 そんなことを前提として、ハーバード・リードも詩人さんなワケですが、それぞれの秘教としての表現を、開かれた空間で交換していきましょうというのがmさんの一貫してもっているアイデアだと思います。そういう意味では、理想的な意味で、芸術と政治のバランスが均衡を保っているのでは。 オレも最近は、創作は徹底的に個人的であるべし。思想も個人的であるべし。ただし生活は社会的であるべしという変てこな姿勢になってきたのですが、つまりmさんのいってるようなことってこういうことなんですよね。 で、ユーモアっていうのも、例えばチャップリンの『独裁者』なんかをその最良の例として見たいのですが、常に暴走する権力を相対化する力を持っていますよね。そしてそれは、敵と同じ土俵(つまり政治領域)に上がるのではなく、あくまで芸術として批判するから、あんなに素晴らしいものになるわけです。そういう意味では、国家暴力に対して反抗暴力としての芸術ではなくて、あくまで芸術それ自身として国家暴力と対決するわけです。それってなんかグッとくるじゃないですか てなワケで、オレも最近「素人の乱」に注目しています。あのセンス、好きですよー。 こないだ、小学校に行く機会があったのですが、低学年と高学年の子の間には結構大きな違いがありますね。 低学年の子達はほんとに無法者というか、やりたい放題なんだけど、高学年の子たちはだいぶ空気を読むようになってくる。 オレとしては中学生ぐらいまではサルでいて欲しいのですが、それにしてもやっぱりダイナミックな社会というのは的確な表現ですよねー。 #
by hirakoue
| 2006-11-24 23:27
|
ファン申請 |
||