海の外にしばらく滞在したことのある人ならだれでも見に覚えがあることだろう。
そりは例えば道ばたで知り合いとばったり出くわしたときに、まず天気の話をする、という習慣がそれほどないことに戸惑うという感覚。天気のまえにまず「やあやあ奥さんは元気か、ナントカは元気か?」という話になる。「最近寒くてまいるやね」ぐらいは口にすることもあるけど、微に入り細に入り、というのはまれだ。(「浴室」でブレイクしたジャン・フィリップ・トゥーサンの「愛し合う」という小説のなかに、日本人が地震についてあれこれ詳しく話し込んでいるところを印象的に記述した箇所があったが、これも外、西洋からの視点だ) なぜ「天気」なのか? もちろん共通の話題でかつ意見が衝突しないという理由もあるだろうが、日本人はじつは本人たちが思っているよりずっと天気、さらに言えば「自然」に影響を受けて生きているのだ― というところから「宗教」と「思想」を語る学者がいる。それはつまり中沢新一さんだ。 いつだったか、J-waveの「グローイングリード」という、V6の岡田君がナビゲーターをやっている番組に中沢新一さんが「宗教とは何か」というテーマのゲストで出演していたのを聞いた覚えがある。(余談だけどオレは彼にひそかに好感を持っている)ちょうどそのとき親友のYU-JIの勧めで彼の本(岡田君じゃないよ)を集中的に読んでいた時期だったので、ラジオのボリュームを大きくして聞き入った。その番組では、もともと読みやすい彼の文章をさらに噛み砕いた話し口だったので、うさんくさい内容になるんじゃないかと思いきや、逆に彼のアイデアの核心があらわになるとてもよいレクチャーだった。(通常、わかりやすくする、ということには大きな危険がつきまとう。特に哲学や言語、自然科学などの領域を扱う場合には) 例えばこんなふうだ。夏の夜、わたしたちは庭で鳴いているムシの声を聞きわけることができる。「これはスズムシ、あれはコオロギ」というように。ところがこれが西洋人にはできない。 ということはこれが日本人の特徴的な自然観である、と。当時とても印象的だったのが、中沢新一さんはここから「宗教」に領域を移行する語り口を持っている、ということだった。 中沢新一さんは宗教学者という肩書なんだけれども、オレのようにその道に不案内な身からしてみると、東洋哲学の案内役のようにも見えるし、柳田邦夫や折口信夫の流れを組む民俗学者のようにも思える。つまりは西洋的なカテゴリーの細分化をよしとせず、東洋のトータルな意味での「思想」を目指しているのではないか。(という意味では、西洋の人ではあるがレヴィ・ストロースをお手本にしている学者さんなのだろう) で、とにかく私たちはムシの声を聞きわけられる、それはオレの解釈でいえばユングの「集合的無意識」collective unconsciousness 、言い換えれば「精神的DNA」にあたる。ムシの声に耳を傾けられる、という特別な能力を受け継いでいるのだ。 中沢新一いわく、明治維新から150年あまりでわたしたちの生活や意識はかなり西洋的になったが、しかし依然として、いまだに日本的な―それは「アニミズム」的なということなんだけど―無意識、あるいは「感覚」を持っている。 そしてそれをとっかかりにして日本の「宗教」を取り出そうとする。 というのも、「日本人にとってのは宗教とは何なのか」という問いが非常にやっかいだというバックボーンがあるからなのである。だいたい観音様と仏様がごっちゃになっているような国なのだ。ぶっちゃけていってしまえば道教だろうが仏教だろうが、キリスト教だろうが有象無象の新興宗教だろうか、根本的な意味で日本においては根付かない。逆に言えばなんでも取り入れるんだけど、それは日本特有のアニミズムに形だけ「取り込まれている」といったほうがいい。 とすると、その仏教も禅教もキリスト教も変形させてしまう「アニミズム」を語ることが日本の宗教を語ることになるわけだ。(これもまだ勉強不足なんだけれども、いずれ中沢新一のおじさんにあたる網野善彦さんや折口信夫さんのことばを借りて話してみればいいと思っていますが…) で、中沢新一さんは力技でいく。 つまり、日本人の自然観がつまり宗教であると。最新刊の「アースダイバー」では、古代東京の地形図をもとに、水に沈んだ盆地と水上に残った高台の対比が聖と俗を作り出し、岬を奉り、それが神社になり祠になり、寺になり、そして今でも日本人の土地感覚と身体感覚に影響を及ぼしている、と喝破する。(これもかなりの力技である。面白いけど) 寺であっても神社であってもそのもとになったのは古代時代、水と陸の「サカイ」を奉った場所がもとになっているというのである。違う宗教を通じて同じルーツに辿りつくことができる。 日本人のこのような思考の根源には、「神話的思考」が働いている、と中沢新一さんは推測する。「神話的思考」とは、レヴィ・ストロースが様々なバリエーションの神話をコードに還元して分析することで明らかにした、ある一つのモチーフを想像力でもって様々なかたちに変容、メタモルフォーゼさせながらストーリーや世界像を無限に増殖させていく思考のことで、ここでは人間と自然、人間と動物、有機物と無機物、生者と死者が絶えず入れ替わり、連鎖しながら全世界的なビジョンを形成している。例えば、水のイメージが性の流動的なイメージを呼び、ヘビ女の神様が生まれる。 この想像力から、たくさんの神々、水木しげるや荒俣宏が愛してやまない怪物たちが生まれていき、この世に相対する(時には交じり合う)「あの世」つまり彼岸が形成されていく。人間と動物たちが親しく語り合い、神様といざこざを起こしたり、宮沢賢治のように、森に「おまえの木もらっていいかあ」と呼びかける。この神様と怪物たち、動物たちで満ちた世界が「アニミズム」の世界である。ありとあらゆるものに「霊性」がやどり、お茶碗ですら100年たったら妖怪になって人間とじゃれあいます。これが日本の宗教の根源なのだ。(この神話的思考は大学での講義録を起こしたカイエ・ソバージュシリーズが詳しい) 普通、文明が発達していくとどこかで「国家宗教」というべきものが組織され、宗教は社会を組織する機能を持つ、違う次元へ移行していく。例えば仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教…(この中で中沢新一さんはキリスト・ユダヤの一神教を異端視してるようだけど) ところが日本人は、江戸時代(たぶん今に至る)までずっと、「アニミズム的世界観」を崩さずにきてしまった民族だった。お米粒にも霊性が宿るから、「もったいない、もったいない」といって目がつぶれるのを怖がって、粗末にされたカサ(人工物!)は妖怪になって復讐し、盆踊りというみんなお面を被ることで、隣で踊っているのが死者だということをカモフラージュしながらおこなわれる変てこなお祭りを継承している。(ゾッとしない話だ!) 普通だったら土着の宗教を駆逐する国家宗教は日本ではなぜだかアニミズムのイマジネーションを増長するような形で定着してしまった。 更に中沢新一さんは冒険する。この思考回路を日本独自のものとしないで、「哲学の東北」という概念を提唱する。日本は生まれ付いての畸形児ではなく、北米大陸や北アジアに分布する大きなアニミズム文化圏の一部だったのだ!こうして彼はイヌイットの文化と日本文化の類似性を丹念に紐解いていくことになる。しかしこれも突飛な話ではなく、神話思考をとっかかりにすればいくらでも考えられる話なのである。そもそも、氷河期の終わる前は日本は大陸と地続きだったのだから― そして「哲学の東北」では、日本という枠をこえた大きな「銀河」を夢見る宮沢賢治に深く共感することになる。どうでしょう、こんなにロマンチックな宗教学者も珍しい。 さて、彼の言う「宗教」が特定のシステム、フォーマットのことをいうのでなく、生活のなかでの感じ方や自然に対する接し方を指すというのがおわかりになったと思うのだけど― 彼の様々なテーマの研究で一貫しているのは、「対象性人類学」に示されているような、西洋型の消費文明に対する対抗枠として「アニミズム的思考」に活路を見出すということなのだけれども、確かにその発想自体に反論はない。人間と動物の対称が崩れ、今までは友達で食いつ食われつしてきた関係が家畜舎に閉じ込めて肉を食べるために「飼育」した結果が狂牛病の蔓延―人間と自然のバランスが崩れて、照葉樹林を全部扱いやすいスギに植え替えて、今や猛烈な花粉症の復讐を喰らっている(ほんと勘弁してくれ!)、どう考えてもおかしいのである。 中沢新一さんにとって、「神話思考」とは「倫理」だ。人間が思い上がらないための、人間が武器を改良させすぎないための(と書いて2001年宇宙の旅のオープニングを思い出した)人間が謙虚でいるためのある種の「制限」なのである。 ★ 一時期彼は「ニューアカ」の一派だといわれた。(正直オレはリアルタイムじゃないのでこの括りがわからないんだけど)というのは今や大学生や若者たち-現代思想かぶれやらJ文学ラバーやらシンリ学系被害妄想の人たちやコンテンポラリーダンスフリークの文化系女子のあいだでうわごとのように繰り返される「リアリティ」について深く考えたからだろう。 中沢新一さんは伝道師なのである。何の伝道師なのかというと、オルタナなリアリティを伝道しにやってきたのだ。「アニミズムの世界」もかつて、そんなに遠くない昔は一つのリアリティでありえた。死者と生者が一緒に踊ろうが、首がにょろにょろ伸びようが、産婦人科に行きたくても目医者しかなかろうが、そのような世界だったのだ。科学的だから、合理的だからリアルというわけではない。そもそもリアリティというのは多元なのである。今いわれているリアリティの危機というのは、西洋型の自然科学的、理性的なリアリティの危機を涙ぐましくも日本に移植してグダグダいっているのであって、中沢新一さんの仕掛ける爆弾は、そのなんだかよくわからないうちに輸入されてあっというまに足元が危うくなっている借り物のリアリティの足元で炸裂する。 (というわけでデリダやドゥルーズで現代のリアリティ危機を読み解くのもいいけど彼の本を読んで、かつてこの世界が持っていたもう一つのリアリティに想いをはせるのも悪くない。) さて、実は中沢新一さんを取り上げたのは、半分は賛同するからで、もう半分は自分は別の立場にいるということを示したいからなのだ。(ということはここからがオレの言いたい事!) ちょっと抽象的な語り口になるけれども、中沢新一さんの倫理のキモは「調和」つまりシンメトリである。自然と人間、動物と人間。それ自体に反論する余地はない。ところがここに「時間」の観念が入っていない。これが問題なのだ。 つまり、一つの理想の世界モデルをある「一点」に想定しているのである。(ある対象線ともいえる)人間と自然が調和していたかつての世界…ところがこれを規定する間にも人間と自然、地球は時速数千キロで宇宙を高速に疾走しているのである。確かに人間と自然が調和できるとすれば素晴らしい。ところがそのヒットポイントは現在どこにあるかという議論が無い。それも高速で移ろっているはずだ。 「アースダイバー」の金魚のトピックスで「人工自然」、畸形自然を洞察するものの、しかし最終章では皇居という「無の場所」、そしてこの記号化された天皇制が欧米消費文明に対するアンチテーゼになると宣言してしまう。これはあんまりにも無邪気ではないか。 確かに中世でいうところの「無」は神話的想像力の源泉でありえた。ところが今や消費文明の温床になってしまっているのである。同じ一つのトピックスをめぐってコンテクスト、文脈は激速で変容を繰り返す。(それこそ神話思考よりも速い!)もし真に神話的想像力を現代にラディカルに炸裂させたいのなら「回帰」の発想を使ってはいけない。 なぜこのようにどこかで「停止」と「閉じ」の構造が現れてしまうのか。ここでちょっと見方を変えて中沢新一さんのルーツを見てみることにする。 彼のデビュー作は「虹の階梯」という本で、これはチベット仏教の高僧ラマ・ケツン・サンポのチベット密教の修行過程を彼が編集記録したという形になっている。そしてこの本を眺めて、チベット仏教あるいは日本の座禅修行でもいいんだけど、とにかくそういうものを想像してみる。するとそこで気づくのが、真理に到達することに「ことば」がいらないのである。あるのは呪文だ。 西洋哲学で真理に到達するにはことばの定義を考え抜いて普遍の概念まで高めていかなければいけない。そういう意味では悟りとは思考なのである。ところが東洋の宗教(中沢新一流に思想といってしまおう)では悟りとは本質的に体験である。 座って、華厳のような世界観を想像し、悟りを体験するのだ。彼のルーツはここである。彼の学者の枠にはおさまらないイマジネーションもここから出てくる、のであるが、オレはこれを否定する。なぜならこの真理は一つの共同体の中でしか成立しないからなのである。 チベット密教では、修行を開始する前に生活を共にし、同じ世界観を「共有」するところからスタートする。その同じベースのもと、ことばなしで「真理」を共有することができる。 でもでも、「はじめに」で書いたように、オレが何かを伝える根本には現実が恐ろしいほど速く変わっていく「かんじ」があるのだ。(それは理屈より更に強くて速い)確かにみんなが同じ世界観を共有し真理に辿りつけたら素晴らしいことだ。ところがそれはもっともっと未来の話だろう。ありとあらゆる他人どもが飛行機でごちゃごちゃに混ざりあいながら、誰が「対称」などと言えるだろうか? 中沢新一さんのいう「アニミズム的世界」は一つの共同体を出ることができない。それが「哲学の東北」だろうと日本だけだろうと同じことだ。 だからどんなに瀕死でも、「ことば」を使って他人と対話する西洋の思想を尊敬したいと思う。なぜならヨーロッパが千年以上続けてきた他人同士の闘争(つまり対話)の歴史が、これからのアジアの、世界の未来の歴史だからなのだ。 だからといって中沢新一さんに心からの反感を持つことはできない。それは自分の心の奥深くにももちろんある「あこがれ」なのだ。 夏の夜、オレはムシの声に耳を傾けながら、「シンメトリの世界」で生きる夢を見る―
by hirakoue
| 2006-04-09 06:05
| ② 中沢新一
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