どうも調べ物を続けているうちに到底上・中・下で終わらなさそうな気配になってきたので、さらに続きをやらなければいけないかもしれない。
たかがブログでこんなことを言うのもおこがましいけれど、ここまで読んでくれている人はぜひ終わりまで付き合って欲しい。 (というのもアクセスも少なければ反応もそこまで多くないこのブログを書くのに少なからぬ読書と調査をしているからで、見返りは求めてないけども、少数の閲覧者の皆には熱意をもって読んで欲しいと願っています。) さて、とにかく土着のデザインはコンセプトにおいてもコンディションにおいてもモダンデザインとは根本的な違いがあるということはある程度説明した。 これからが本題。 モダンデザインとは何なのか、何のために存在しているのか、誰が必要としているのか? ★ このブログを始めるきっかけをくれた、そして様々な領域への好奇心を向けさせてくれたドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンの「パサージュ論」で現代建築への言及がある。 (ところでフランス語で通過・通路・滞在などの意味を持つパサージュを「敷居」と訳した伊藤秀一さんはとっても切れている) ここで、ベンヤミンは20世紀初頭に登場したバウハウス建築に注目する。 例えばミース・ファンデル・ローエが多用したガラス、これは何を意味しているのか。例えばゴシック建築と建築すると、ゴシック建築は柱と壁で外部と内部を「仕切って」いく。つまり外部と内部は非連続であり、不透明である。これは、アラブ建築では更に徹底され、モロッコのメクネスやフェスの迷路街「スーク」ではその街区そのものが一つの迷宮のように外部から「遮蔽」されている。 これに対してバウハウス以降の現代建築は、全て「窓」で建築していこうとする傾向がある。新宿西口の高層ビル群を見ればわかるとおり、外から見えるビルの壁面はほとんど窓ガラスで覆いつくされていて、前回ちょっと触れた青山プラダビルにいたっては「窓」しかないのである。 壁と柱は極力排除されるように設計されている。ここで建物の内部と外部の関係は、「外から覗き込む視線」によってあいまいになっていくのだ。 このような傾向をベンヤミンは「室内空間での個人的な生活の消失」だと見る。 極端な話もし個人の家庭の壁面が全て窓ガラスになったとしたら、つまりその人の生活はガラスケースにいれられたアリの巣よろしくすべて「筒抜け」になってしまう。 さて、意識的にか無意識的にかは知らないが、もしこのように建築の「透明性」が増していくとすれば、それはその中で活動している人たち(つまりオレたち!)が「外から見られること」を欲するようになったともいえるし、外部の人たちが建物のなかを「見たい」と思うようになったともいえる。 (ところでロンドンでは地下鉄テロ以降、ほとんど全ての公共施設に監視カメラが導入され、車道を走る車のバックナンバーはコンピューターで管理されている。あまつさえ政府はドライバーにその管理費をよこせという始末だそうだ。この論理はタレントのオーディション参加にお金を払うのに似ている。そう、「始終不特定多数の誰かに見られたければ金を払え」のごとくなのである。) ★ ここでベンヤミンの同時代人、スペインのジャーナリストであるオルテガ・イ・ガゼットに登場してもらうことにする。社会学の古典である「大衆の反逆」は時代変化によって通じなくなってしまった文脈もあるけれど、現代の都市生活に疑問を持つ人は是非一度読んでみるといいと思う。 かいつまんで要点をいうとこうだ。 現代とは、貴族社会(特権階級)から大衆社会へ移行する時代である。大衆は社会に向かって、自分たちの欲求を満たす条件を要求する。そして、大衆は大衆のままで(つまり、フツーの人のままで)特別な人間としてのアイデンティティーを要求するのである。(なぜならフツーでない特権階級の価値はすでに失墜しているからだ) あくまで貴族社会を支持するオルテガを絶望させたのは、知人の貴婦人がパーティの成功を「より多くの人」が来場することだというセリフだった。もはや貴族ですら不特定多数の注目から自由でいられない。 そう、つまり重要なのは「マス」に四六時中見つめられることであり、よりたくさんの「大衆」の注目を得ることがより優れたアイデンティティーに直結するのである。(この話は後日写真を取り扱いながらより詳しく論じることにする)大衆にとってのアイデンティティーはMIXIの足あとページなのだ(といったら意地悪すぎる??) ここで一つ転換点が訪れたといっていいと思う。あらゆる価値基準が質から量へと、低速から高速へとギアチェンジされたのだ。 無名の大衆たちの多くが、「特別」な人間になることを望んだ。しかしそれは「特権階級」になることではない。つまり、質の転化ではなく、特別な大衆になることを望んでいるのだ。 わかりやすく言えば、隣のあのコより「ちょっと」個性的、のファッション誌のキャッチコピーであって、コンバースのスニーカーよりはマーク・ジェイコブスのパンプスであって、ユニクロのジーンズではなくてツモリチサトのシフォンスカートであって、ちょいモテ親父でジミータよりアテージョで...脱線してもいいなら例を限りなく挙げることができるぞ!! で、女の子たちの目標はグレタ・ガルボや原節子ではなくて長谷川京子やあまつさえMEGUMIや熊田洋子なんかのイエローキャブのグラビアアイドルすらになり、驚くべきことに、去年のモーニング娘。の新規メンバーオーディションには2万人以上の応募があったのである。(といってもこれは主催者の発表であって実際はもっと少ない、という反論があるが、問題なのは主催者が数を多くサバよんだということである。つまり、主催者が望んだアイドル像は、できるだけ多くの女の子が「私もなれるかも!」と錯覚を起こさせるもの、ということだ) アイドルやファッションだけではない。政治演説においても、「庶民にわかりやすい」ものが無条件に好まれ、これに乗った田中角栄や石原慎太郎が横暴を犯した。 近年の新書ブームもそうである。いまや「だれにでもわかる」こそが至上の美徳なのである。 (で、オレとしてはこの牙城を崩そうと頑張ってみるのだがいまのところどうも分が悪い) これを言い換えてみると、「大衆にあまねく理解されないものは無いも同然」なのである。そう。ここ100年で大衆はそこまでの権力をもった、がオルテガが批判するのはそれに見合うだけの「賢明」さを持つのだろうか、ということなのである。 権力を持った大衆はその要求に答えて感情を揺すぶったナチスとヒトラーをまんまと与党にしたてあげ、そしてその後ヨーロッパは泥沼の戦争に突入する。 現在の日本の状況を見てみても、大学や専門の研究領域を除いては、「あまねく大衆向け」の言葉しか存在していないとすれば、日本の知性の底は限りなく薄いとしかいいようがない。1000万部前後の新聞紙がいくつもあるかわりに、TIMESやLIBERATIONのようないわゆる「クオリテイ・ペーパー(ここでも質の問題!)」が存在していない状況を良いと思うか悪いと思うか、それも皆に聞いてみたいと思うんだけれども.... ★ 話がそれたけれども、オレが言いたいのは、モダンデザインとはオルテガいうところの「大衆」に向けて作られているということだ。大衆の欲求に応え、より多くの欲求を引き出し、隣人と同じものを手に入れることができ、それに不満なら「ちょっと」違うものだって選択することができる。 建物がガラスになって、隣人の生活を見ることが出来るようになった―これは恐ろしいことに、物理的な話だけではすまず、隣人の欲望をも覗き見れることになったことの隠喩でもあるのだ。そう。モノを手に入れたいと望む欲望も「透明化」したのである。 まずは1920年代、(またもやベンヤミンやオルテガの同年代!)アメリカ消費文化の幕開けである「黄金時代」。社会の教科書でも習ったであろう初の大衆向け自動車「フォード」の登場である。とりたててエリートではないフォードの組立工のほとんどはフォードを所有していたそうだ。というのも、給料の2,3ヶ月分でフォードが買えたからなのである。(同様にトヨタの組立工はどうか。)そして、ハイセンスかつ低価格な電化製品ゆインテリアを満載した前代未聞のカタログ「シアーズ」が大衆家庭に普及した。そう、「よりよい生活を、全ての人に!」の全世界的な横行が開始されるのである。 フォードさえあれば、職場からはるかに離れた野っぱらのど真ん中にマイホームを持ったって大丈夫!隣家と何マイル離れていたって電話とテレビがあれば寂しくない! かくしてリチャード・ハミルトンのコラージュよろしく不気味で非人間的な生活環境がアメリカの郊外を覆っていった。(ということはアメリカの生活圏における距離感覚は100年近く前から人間の身体感覚を超えていることになる。) で、日本ではモダンデザインの大爆発は太平洋戦争後である。 クルト・ジンガーが魅せられた「三種の神器」(勾玉・鏡・剣)は戦後、掃除機、洗濯機、冷蔵庫となって復活した。前者と後者で違うのは、前者は特別な「宝物」であり、後者は誰しもが手に入れられる可能性のある「モダンデザイン」だったということであり、前者は神と権力者に捧げられ、後者は大衆のよりよい生活に捧げられたということだろう。 その後はブリジストン、ソニー、松下、トヨタ、コニカ....数えればキリがないが膨大な数の種類のモダンデザインが膨大な台数流通した。 トナリがカラーテレビを買えばウチも買う。この論理こそまさにオルテガの予見した論理である。もはや特権階級や神のためのデザインは存在しない。(念のために説明しておくが特権階級とは金持ちとイコールではない。かつては大衆は金を持ったところで商人から王侯になれなかったのである) オルテガは今まで数こそ多いものの決して舞台に登れない存在であった大衆が堂々と舞台に上るようになったのだ、と言った。その通りに民放のバラエティ番組には素人が乱舞し、芸人の素人化も積極的に進められているではないか。(ロンドンブーツと素人の間にある境界線は、素人を上手いじくれるかどうかにある。ただしそれ以上でも以下でもない) で、その文脈でえばデザインは今や大衆の役者としてのアイデンティティーを演出するための舞台装置、あるいは小道具になってしまった。 カリスマデザイナーが「発明」した画期的なデザイン??? 佐藤可知和がデザインした携帯のデザインは一ヶ月もすればドン・キホーテやダイソーのプロダクトに移植される。 一体この現象は何と説明すればいいのか? このためには今までやってきたようなデザイン史を辿るだけの思考では限界がある。なので次回では、それに加えて主としてボードリャールの論旨を借りながら「記号」と「差異(要するに細かな違いということだ)」というキーワードからモダンデザインを読み解いてみたいと思う。更には、その観点から見るモダンデザインをどう思うのかという個人的な意見も付け加えてみたい。 次回に続く!!
by hirakoue
| 2006-06-29 03:19
| ⑥ モダンデザインと日本
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