はてさて、今年は例年になく国内海外を問わず色んなところをウロウロしてしますが、先日はDVD遊歩制作部クルーと新島にいってきました。
高い建物がない!マックがない!コンビニがない!海の底が見える!みんなのんびりしすぎ! と生粋の東京っこにはビックリの環境でした。(とはいえ新島も東京) 何年かぶりに海でたっぷり泳いで、夜はビーチでレゲエを聞いて、リラックスした島ライフでした。来年もいこうっと。 さて、根っからのネット住民が多数派の遊歩制作部、一週間近くネットに接続しないという経験はなかなか稀なようでした。(オレはそうでもない) 携帯、そして次はインターネット、この新鋭のテクノロジーはどうもヒトの脳みその構造を変えているらしい。 携帯をよく使うとか使わないとか、mixiの足跡を気にするとか気にしないとかはあんまり意味の無い議論で、問題なのは携帯を持てば自分の存在はすぐにいつでもコンタクト可能な存在として定義づけられ、携帯を「持つ」ということがイコール自分のアイデンティーを固定してしまうということになるわけです。というか携帯というテクノロジー自体がヒトをいつでもコンタクトできる存在に変えるために開発されたのですよ奥さん。 例えば着信履歴というのは便利なようでいて一種の暴力なワケです。なぜなら履歴が残るからかけ直すということが義務になるからで、履歴を見ませんというのは義務を怠ったとして相手から裁かれることになるからです。ちなみにmixiの足跡もだいたい同じ原理。mixiで足跡を見ないという空しい自己主張はバトンが回ってこないという村八分の審判を下されることになる。 中学生のときに朝礼で生活指導の先生が「君たちは道具の使い方を考えなさい」なんてことを言っていましたが、携帯やネットのテクノロジーというのは「所有するかしないか」が問題であってどう使うかという選択肢は開発者や広告によって決められるワケです。(この年になってようやく学校の先生たちが訳知り顔でいってたことの大半が「安全圏内」だということに気づくとは) で、何がいいたいかというと、次のブログはネットについて書くぞという予告がしたいということ。 ☆ 新潮の六月、7月号での梅田望夫さんと平野啓一郎さんの対談では、梅田氏の「ネットはもはや社会である」という主張と平野氏の「イヤ、社会の近似である」という主張がぶつかりあっていました。 まずいえるのは、もはやネット世界なんて存在しないという主張はできないということ。 何年か前だったら「あれはオタクのヒトたちだけのものでしょ」という安直な考えが凡人には許されましたが、最近はそんなことは考えられない。 好きか嫌いか、使ってるか使ってないかというのは問題じゃなくて、ネットという世界はすでに疑いなく「在る」わけですが、さてそれをもう一つの社会と捉えるかあるいはその近似だと考えるか?? で、詳細はまた詳しく。 ただ一つだけオレの基本的なスタンスをいうと、ネットや携帯というのは別に革新的なテクノロジーではないと考えています。テクノロジーというのは常に人間の世界のかたちや大脳新皮質の構造を変えるわけで、その点でいえば携帯は伝書バトの子孫だし、ネットもオープンソースにアクセスするという意味ではバビロニアの象形文字が刻まれた石碑の末裔のハズです。 ただそういうモノと携帯やネットに線を引くものがあるとするならば、それはポール・ヴィリリオののいう絶対的な「速度」なのでは― というような感じでいっちょウェブ進化論を解析してみたい。詳しい人是非知恵入れしてください。 ☆ さて、ここ一週間何人か相次いで友達の誕生日でした。 中でも印象深かったのは一人旅のさなか東京で二十歳の誕生日を迎えたフランス人の女の子。日本語を勉強中の彼女に谷川俊太郎の詩を贈るのを思いついたときは自分天才!と確信。で、その子にとっても印象的だったようで、ずいぶん感激してくれました。 数年来の親しい友達にプレゼントしても、反応薄いもんなー。 なんにせよ、彼女にとって忘れがたい思い出になれば何より。 で、ときはバカンス真っ最中。アメリカやらフランスやらスペインやら海の向こうからお客さんがやってきています。彼らと一緒に東京を歩くと、また違った視点で気づくことがたくさん。 世界はそれをみている人の数だけある。 イスラエルから見た目もあれば、レバノンから見た目もある― 今回の事件の当事者(つまり西側世界と中東世界)ではない日本はサイードのいうオリエンタリズムの外部からの視点を持てるハズと期待したいのですが、果たして冷静な報道は届くのでしょうか。 で、新島のののちゃん(三歳)↓
by hirakoue
| 2006-08-05 03:09
| ☆ ブレイク
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