日本には文芸批評家が語る政治というものがある。
これは経済学者や社会学者が語る政治とは違った観点から語られていて面白いものでもあるし、文学青年が通過する最も身近な「政治」でもあるのだろう。 が、そこにはある不毛さを感じないわけにはいかない。 前回靖国問題のことを考えているうちに、その不毛さとは何かを分析してみることが必要なんじゃないかと思って、現在朝日新聞の文芸批評を手がけている加藤典洋さんを通じて「ナショナリズムは何か」ということを考えてみたい。 ☆ さて、古くは小林英雄から始めてもいいし、戦後でいうと江藤淳を始めとして、「文芸」で語る日本という国というカテゴリーがある。もちろん人それぞれで論旨は違うが、論点はいくつかに絞られている。一つはもちろん、日本語という「国語」である。(意外に思う人もいるかもしれないが、日本語イコール国語という考えは先進国では珍しい。例えばスイスでは公用語としてフランス語とドイツ語があり、それに英語も国語として存在し、更にネイティブな言葉も存在している。) そしてもう一つ、「日本という国はなんなのか?」という問題である。 つまりは、日本というネーションについて考えてみようということだ。 言語の問題は今回あまり立ち入らないことにして、この「ネーション」という厄介な問題をちよっと考えてみよう。 さて、ただいまプチナショナリズムが巷で流行しているらしいが、このナショナリズムを日本語に訳すと「愛国心」となる。ところが実はもう一つ「愛国心」と訳せる英単語がある。 それは「パトリシズム」といって、あえて違訳すれば「愛郷心」のようになるだろう。 ナショナリズムの元になる、ネーションという概念はどういうものかとすると、国家という政治共同体ととりあえずは定義しよう。それに対してパトリーという概念は、よりローカルな風土や文化から発生している。 具体的にいうと、日本という単位はネーションであるが、こないだ帰郷した波戸という小さな集落はパトリーである。パトリーは常にそこに住んでいる生活や文化と密接に結びついているが、ネーションはそこから切れた形でも成り立つ。 オレはこう定義している。パトリーはある特定の地域に人が住んでいる以上自然発生するものではあるが、ネーションはそこから「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)という政治的なプロセスを踏んで初めて登場してくる。つまり、ネーションは後天的なものなのである。パトリーはもちろんそこに住んでいる人のためにあるが、国家はそうとは限らない。パトリーと違って国家は必ずしも国民に奉仕するとは限らないのである。 さて、英語では明らかに区分されている「愛国心」が、日本では言語レベルでごっちゃになっている。そしてややこしいことに、政治レベルでもごっちゃになってもいる。この問題が文芸が語る日本において大きな関心の一つになっている。(ただし言語的にごっちゃになっているから政治的にごっちゃになるんだというブンガク的な理論に同意するかは別である) それはどういうものかというと、加藤典洋の「日本人の肖像」という本で面白い説明がある。かいつまんで説明してみよう。 ☆ 日本地図の歴史には興味深い変遷がある。(ちなみにイタリアの作家カルヴィーノも同じような研究をしている) 開国の近い幕末を境界として、その前と後では日本地図を描くプロセスが決定的に違っている。幕末以前ではこう書く: まず、京都という国を書いて、その横に奈良を書いて、そして次に○○の国、というようにたくさんの国の集まりが結果的に日本列島の形に見えるという体裁で、お団子がごちゃごちゃ集まって日本らしきものに見えるという形なのである。 ところが、近代になると根本的なプロセスの転換がおこる。 まず最初に日本列島の輪郭を書き、それを分割して地図を作るのである。 もちろん測量術の発展もあるだろうが、ここに大きな思考の転換が隠されている、と加藤典洋さんは言う。 まず幕末以前の地図では、ライプニッツの理論のように、たくさんの地域(モナド)の集積として結果的に一つの国があるという考えであるが、それ以後になると、まず日本という一つの国を考えて、それを区切っていくときに地域・各藩が表れるということになる。 これを先程のネーションとパトリーの違いをふまえて言うとこう説明できる。 幕末以前の日本は、たくさんの地域・パトリーの集まりがあって、それが日本列島という一つの地理的空間の中を満たしていたという状況だった。(だからまずはあるパトリーから地図を書き始める) ところが幕末になると、パトリーの前に、日本という一つのネーションが想定され、(だからまず日本列島の輪郭線を書く)そのネーションにはこれこれのパトリーが「含まれている」という風に考えるようになる。 こう言いかえてみよう。 人の顔を書く場合、目を書いて鼻を書いて...という各パーツを寄せ集めていって最終的に顔に見えるものを書くという場合と、まず輪郭をかいてその中にパーツを書いていくというやりかたの違いである。 もちろん断言はできないが、パーツ寄せ集め型の場合、「顔」という概念抜きで、人の顔を描いている可能性があるのである。つまり、ちっちゃな子が、なんとなく首の上にこんなものが乗っかっているぞというモノを描く、という可能性である。ここに人の「顔」というイデアはまだ存在していない。 対して、輪郭線から描き始める場合、そこには間違いなく「顔」というイデアが想定されている。つまり、目や鼻を描くのには、「顔」を描くという明確な目標がある。その根拠づけとして輪郭という一つの境界線を設けるのである。 それに対してパーツ寄せ集め型には、ただ目や鼻を描いて、それが結果的に顔になるという可能性がある。(文章で書くとなんとももどかしい感じになるがおわかりいただけるだろうか?) で、何がいいたいかというと、幕末以前には日本には厳密な意味での「ネーション」というものが無かったのである。豊臣家があり、北条氏があり、徳川家があり...という無数のパトリーが陣取合戦をやっていたわけで、「天下を取る」というのは日本列島という陣地を制するという意味合いであって、日本というネーションを取るという意味ではなかった。 そして、その無数のパトリーが集まった日本列島を外から眺めると、ジャパンとかジパングとか呼ばれていたわけで、本人たちに「日本」という概念は無かったのである。 (という根拠として、江戸時代までは日本人は「自分は日本人」である、という感覚を持たなかった。「自分は長州人」である、という感覚は持っていたにしろ...) ☆ さて話を進めよう。 幕末以後になると、新しい形の地図が登場してくる。これが何を意味しているかというと、ここでようやく「日本」という一つの政治的共同体が現れはじめたということである。 何故そうなかったというと、いくつかの観点から語らないといけないのだが、まず第一にそこにアメリカやイギリスという他なる「ネーション」が登場したということが大きい。 幕末にペリーが乗るアメリカの黒船が開国を迫った。 そして次いでイギリスが不平等条約をつきつける。今まで400年日本の外に外部を持たなかった日本の中では、日本列島が世界の全てだった。日本地図=世界地図なのである。しかしここで突如海の向こうの大陸が現れた。そしてその誰だかわからない言葉も通じない外国人がこっちに不利な関係を持つことを脅迫してきたのだ。 もうおわかりであろう。この段階で初めてネーションが意識されだすのである。 さて、外国が日本にズカズカと踏み込んでくる。ここで日本は文句をいいたい。ところが「正義は我にある。よって討伐すべし」という戦国時代の理論を持ち出すとどうなるか。もちろん強大なネーションの前にあえなく植民地になるだけである。 さて、実は幕末(1863年)に薩摩班はイギリスと海で一線交えているのだが、もちろんイギリス艦隊の前に大敗している。ここでオレは一つのギャップを感じる。 というのは、薩摩VSイギリスという図式である。日本VSイギリスではないのである。 言い換えると、パトリーVSネーションである。これはどうみてもアンバランスであるし、そもそも敵いっこない。フロリダやオクラホマでなくユナイテッドステイツというネーション、ロンドンやリバプールでなくキングブリテンというネーションが日本列島、ジャパンと対峙している。 それに対して薩摩という一パトリーが出しゃばったところでどうにもならない。 薩英戦争の後、幕府はもし西欧の餌食になりたくないならば日本というネーションを創って西欧のネーションと対峙する他ないという結論に至ったのである。 ネーションとネーションの間でしか、「外交」という政治手腕は選べないということを思い知ったともいえる。ここでようやく「正義は我にあり。よって討伐すべし」という理論から「正義は我にある、が相手にも正義があり、一戦交えると壊滅する。そこでとりあえずどっちが正しいかはさておき、お互い歩み寄りをしよう」という対-外概念が生まれる。それは、つまり他者との対話である。 これが日本の近代の始まりであると言えよう。 ☆ さて、そして紆余曲折があって(その紆余曲折が大変大事なのだけどそれはまた改めて)徳川幕府の権力は解体され、日本国というネーションが急ピッチで作り上げられた。 しかし考えてみるとこれは大変なことだ。今まで近江の国と唐津の国は外国同士・他人同士だったのに突然お前たちは仲間同士だということになったのである。そんなことを突然言われても...ということで終わってしまう。他人同士が仲間同士になる一つの根拠・シンボルが必要不可欠になる。 で、ここで何が起こったというと、長らく死にかけていた天皇制にスポットに当たったのである。万世一系の天皇を頂点として、日本列島に住むあまねく住民たちが「日本国」というネーションの中に組み込まれることになった。 冒頭の方で話したネーションが後天的に現れるシステムとはこのことである。 パトリー・藩という概念の場合、そこに顔も素性も知られる藩主がいて、その土地に住む農民たちがいて、その間に冨の分配システムがあり、かなり具体的な国が成り立っていた。 ところが天皇という人間であって神でもあるシンボルが政治の頂点に組み込まれたシステムとしての日本というのは格段に抽象的なのである。つまり、日本国民は何か抽象的なものに仕える存在として再定義されたといえる。 さて、このように始まった近代がどんな問題を抱えていくのだろうか?それはまた次回。
by hirakoue
| 2006-08-29 04:21
| ⑪ 加藤典洋
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